帰国子女?ハイジ ~オーストラリアの牧場生活~

帰国子女?ハイジ ~オーストラリアの牧場生活~

留学経験7年 海外駐在3年 経験上のひとりごと



3年間の高校時代をオーストラリアの田舎町で過ごした体験をはじめ、海外生活上出会った

大学時代の留学生友達、駐在時代の日本人妻友達・・・いろんな人との出会いが私を成長させてくれました。

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Walkathon

歩くマラソン?

毎年マラソン大会のような行事があった。
それがwalkathon
中高一貫の公立高校で、
中1から皆毎年この大変な行事に参加しているのかと思うと
まさに タフな人種だと関心するしかない。

その行事は皆が20枚つづりの番号がついた整理券のようなものの束を渡される事から始まる。バウチャーチケットと呼ぶらしい。

同じ内容が左右に書いてあり、
名前と金額を書き込めるようになっている。

皆そわそわとそのバウチャーチケットを持ち帰り、親や知り合いに
スポンサーになってもらい、
自分が完走できるか賭けてもらう
。その資金が学校に寄付される。

完走と言うか、正確には歩くのだが…

日本なら秋のバザーで不用品をお金に替えて寄付するが、

あちらの田舎の学校、いや、もしかすると私が通っていた学校だけ?の恒例行事だった

私はよくわからないまま、当日
弁当のサンドイッチを持ち、歩きやすい服装と靴で登校すると、

又、学年ごとにバスに乗せられ
また通学してきた道を戻り~
20キロ離れた 何処かわからない牧場の間の農道に降ろされ

さあ!スタート!(^-^)/

Σ(゚д゚lll)え?
いま なんと??

20キロ先から
下校時刻までに学校に戻らされる
のでした。(ー ー;)

わけがわからないまま
歩くしかない T_T

タフなヤンチャ生徒は
でっかいスピーカーがついた
1mくらい幅かある
ラジカセを肩に乗せて、
ガンガンAC/DCなんかの曲をかけながら歩く。(ー ー;)

あのラジカセいらないだろ?
重いだろ?
邪魔だろ??
自分一人でウォークマン聴いたらいいのに、そこはドデカスピーカーでガンガンいかなきゃ ならないみたい。(ー ー;)

お祭りみたいなノリな中、
私だけ、憂鬱で 騙された感で
まるまる一日ずっと 黙々と歩くT_T

やっと学校にたどりついたら
ミッション完了!
\(^o^)/イェーイ!

って(ー ー;) 私にはそんな体力残っていなかった。

311の地震で20キロ
徒歩帰宅した人も
いたかもしれないけど、

そんな行事を毎年毎年T_T
全校でやるなんて

その寄付金私が払うから
辞めさせてT_T

あまりにも過酷な行事に
私は翌年から
堂々と 何と言われようと
欠席しました。(u_u)

人種違うんだから
そんなタフじゃないやい。

彼らの体力は半端ない。
学校のスケジュールは

2月から新学期が始まり、
3学期制で
12月で年度が終わる。

1月は夏休み

大学生は11月から3ヶ月くらい休みな学部もあった。
私のいた工学部工業デザイン科は
1月の一ヶ月だけ。カリキュラム盛りだくさんなコースだった。

大学時代は
毎年年末に日本に帰国して、
コンビニのサンクスで6時から13:30までバイトをした。

主婦パートが年末休みたがるから
重宝されたっけな。
店長と雑誌の並べ方で競ったりして。(笑)私なりな こっちの方が売れるよっていうこだわり。(笑)生意気なバイトだった。

高校時代は
年末にお客さんが来ることもあったから、帰れない時もあった。

昭和から平成に変わった時も、
確かお客さんが来ていて、
日本の一時代の終わりを目の当たりにはできなかった。

後の、2002年日本開催のワールドカップにも海外赴任中で参加できなかった…。

その時に私にとっての
人生最大イベントである
出産をシンガポールでしていたから。


今現在 宮崎で 沢山の牛が殺傷処分になっている。 宮崎だけの問題じゃないのに 関東ではあまり危機感がない・・・。


私のいた牧場は食肉用の150頭の牛がいた。 雄牛は2頭で 


それらの雌牛に種付けをするらしい・・・。 すごいなあ・・・


種付けの悪い雄牛は 売られて肉になってしまう・・・。


ある朝起きたら 窓の外でやけにうるさく牛が鳴いている日もあったっけ・・・。


住居近くにはキャトルグリッドという 細かい梯子のようなものがあって住居には家畜はこないはずなのに


伽取るグリッドは 例えて言うなら 巨大ドブのふた??


畳2枚くらいの場所に穴をあけて、格子のふたをかぶせると四足の家畜は通れない。でも車は通れるってわけ。


なのに、びっくりしたりした拍子に 越えてしまうこともあるらしい・・・。 あと、他のゲートが開いていたとか。



牛は とっても大きくて団体で道をふさがられると通れない。


うちではないけど、 スクールバスで学校へ向かう途中、よく乳牛の道渡り待ちってのがあった・・・。


乳牛は毎日毎日絞るから・・・乳牛の農家は旅行へ行けない。


搾りたての牛乳バケツ一杯で100円で譲ってくれたけど、とても脂肪分が多くてのめない。天然バターみたいな

層が一番上にある。


オレンジやりんこ、レモンの果物も庭に沢山なっていたけど・・・ スーパーの果物や牛乳のほうがずっと美味しいから食べなかった。


牛と生活していたこと 忘れつつあった。


沢山の牛が食べられずに殺されて なんだかかわいそうだな


でも ベジタリアンじゃないのに そんなこと言えないかな

久しぶりにブログ更新をします。


すでにこのブログを立ち上げてから数年・・・・。現在2010年5月です


昨年2月に私の故郷オーストラリア ビクトリア州で 悲惨な山火事が起きました。


私がホームステイしたマーリスビルの村や 大好きなオージーの両親といってもいいくらいな友人の自宅が

全焼してなくなりました。


すべてが灰の中に 


そして 1年で だいぶ生活を取り戻してきています。


私の青春を過ごした故郷… なのに 私はなんて無力なのだろうかと思いました。


ちょっとやそっとじゃ もとに戻らない森 


Special English Teacher だったミセスミラーが


「怖い」という単語をわかりやすい文で教えてくれる時、


例文で 「私は山火事が怖い」 と言っていたことを覚えています。


本当に怖いことなんだなあ


日本の大地震みたいだ。


どうか みなさん・・・強く・・・ あきらめないで 生きてね。


高校1年(Year10)の時に選択していた科目について前にも書いたが、


体育、家庭科・・・そして「美術=ART」を選択していた。


高1で唯一、選択して正解だったものがこのARTだった。


言葉も体力も通用しない中、ARTでのハンデはほとんどなかった。 だから私は、中学時代よりも美術が好きだった。


特に課題の中で、自分が好きなようにさせてくれるという自由課題があったとき

私は自分の得意とするジャンルで課題をやろうとしていた。


得意とすることは・・・中学時代に褒められた課題かなぁ・・・・

木彫り=彫刻とポスターのような定規を使って几帳面に描く絵の類だった。


緑化ポスターで中学時代に賞ももらっていたので、ちょっと得意げだった私・・・

特に書体を考えたり、綺麗に文字を描くことが好きだったので

「将来は看板屋さんになろうかなあ」 そう思うくらいに、新聞の文字を綺麗に真似して描く! 

という行為が好きだった。(今はパソコンがあるから綺麗な文字をプリントすれば簡単だけどね)


芸術的なことよりも技術的なことが好きだったんだろう。。

芸術的センスの要する絵画は・・・不得意で嫌いだった。 


そんなふうに、ちょうど迷っている時・・・


あれ? 美術にいない子なのに、なぜか絵を入れた大きなファイルを持ち歩いている友達に気付く。

その子の作品を見ると、ヘタクソな(失礼だけど)ドナルドダックの絵。

基のキャラクターを真似て、大きくしたり、小さくしたり・・・

「真似してコピーする」ことをマジックやカラーペンでやっている・・・。。。 何これ??

遊びじゃないの??


これぞまさに私の得意とすることじゃん!!!しっぽフリフリ


そうピン!と感じた私は詳しくそのファイルを見せてもらい

その友達=キャロラインに初めて「GRAPHICS」

という選択科目があることを教わった。


そして、すぐさま家庭科(HOME ECO)を辞めて、グラフィックスに科目変更をしてもらった。


あの時、キャロラインがヘタクソなドナルドダック持っていなかったら、私は今、どうなっていたんだろう??

・・・それくらい、グラフィックスというジャンルを知った私の進路は、そっち方面へ着々と進んでいった。


日本じゃ「技術」の時間にちょっとだけやった製図とか・・・文字をきっちりパソコンの書体のように書くこととか・・・

それらは全てひっくるめてグラフィックス(商業デザイン)の中に入っている要素だったんだ!


たぶん、そのことに気付いていない日本人は多いんじゃないかな。


世の中にグラフィックデザイナーという職業があるってこととか・・・ それまでの私は知らなかった。


そして、グラフィックスの世界を調べていくうちにデザインの本の中で、初めて

インダストリアルデザイン(工業デザイン)」というカテゴリーもあるということを知る事ができたのだ~!!(これはまた今度)


この頃のグラフィックデザイナーへの憧れがあったから、ついつい今の旦那様と結婚しちゃったのかもね。あせる