「気が向いた」ことを、「気が向いた」ときに、「気の赴くまま」に、言うなれば、「やりたいこと」を「やりたい時間」に、「やりたいよう」に、できるということが、どれほど幸せなことなのかということを、最近、あらためて、つくづく、実感している。言ってしまえば、「学校の勉強」にしても、「仕事」にしても、この「やりたいこと」を「やりたい時間」に、「やりたいよう」に、できるという大前提が崩れ去ってしまっているから、ある意味においての「苦痛」を伴う瞬間・瞬間が出てくるのであって、これが兼好法師の徒然草の「つれづれなるままに(気の赴くままに)」方式であったのであれば、当然のことながら、この「苦痛」に近しい感情・思考というのも、極端に減ってくれるはずだ…ということを思ってやまない。

たとえば、今の時間は、「漫画を読みたい」と思っている。だから、「漫画を読む」という行為を行う。またあるいは、今の時間は、「新聞を読みたい」と思っている。だから、「新聞を読む」という行為を行う。またあるいは、今の時間は、「ブログを書きたい」と思っている。だから、「ブログを書く」という行為を行う。もちろん、相手や時間・タイミングあっての活動もあるから、全部が全部、自分の思い通りに(思うように)コントロールできるわけではないけれども、一般的には、前述したような活動、すなわち「漫画を読む」、「新聞を読む」、「ブログを書く」といったような活動それ自体に、制限がかかってしまうsituation(状況)というのは、よっぽどの重い病気か、大変な状況でない限りは、制限がかかりようがないはずだ…と、言い切ることができるだろう。

 だから、こういったこと(つれづれなるままに(気の赴くままに)活動ができること)というのは、実は、大変、幸せでありがたい(有難い)ことなのにもかかわらず、このことについて、感謝をできている人たちが非常に少ないというのは、なかなかどうして残念なことだ…と、どうしても思わざるを得ない。もちろん、「できる」ようになるまでに、時間がかかることというのもあるから、「そうは言っても、そんなに活動のバリエーションを広げられるほど、いろんなことに興味を持てないし、楽しめるだけの熟練度もないよ」といった意見もあるにはあるのだろうが、「やろうと思えばできる」というsituation(状況)それ自体がもたらす、ある意味でのプレッシャーからの解放感というのは、何物にも代えがたいものがあるのではないだろうか。つまり、「この活動(ここ)」がダメでも、「ここ(この活動)」がある。「あっち(あの活動)」がダメでも、「そっち(その活動)」がある…といったような前提条件を、あらかじめ、持つことができているならば、これほどの「心理的安全性(ああ、ここだけが自分のコミュニティ(居場所)ではないんだな。だから、嫌われたら嫌われたでいいや。みたいな感情を持つことができるという安心感)」も、そうそうないことだろう。

 僕は、このこと(心理的安全性を持つという意味での活動のバリエーションを広げることや、モノを集めること)を、「切り札のコレクション」と称していたけれども、これは、何も特殊な状況下にいる人たちだけに、この「心理的安全性」をもたらしてくれるわけではないと思っている。