漫画やアニメの世界からインスピレーションを得たりとか、その「漫画のシーン」を思い浮かべることで、少しserious(少し深刻)に捉えがちなところを、「ポップなイメージ」で、実際には、叱られているんだけれども、「叱られて」いるような気がしない...といったような、そんなeffect(効果)が、漫画のシーンやセリフ、アニメのシーンを思い浮かべるということには、確実にあるなあ...と思う。オーディオブックに「ディスって知性を身につける」みたいなオーディオブックがあって、正直、当初は、「ディスる」のは、ダメなのでは?と、思ったのだけれども、これについても、この「怒ったり、叱ったりしたいところ」で、漫画のワンシーンを切り取って、それを再現する...というのと同様に、「知性」を織り交ぜることで、「ディスられているのにも関わらず、ディスられているような気がしないなあ...」という、感想を、その受け手が持つことに成功することだろう。例えば、「植物だったら、ゲノム解析されてそう。」とか、「パリティビットが意味をなさないですね。」とか、そういった類のディスられ方をしたとして、受け手としては、「自分って、ディスられているの?」と、正直、あまり、ピンとは来ないのではないだろうか。つまり、結果として、「相手を傷つけずに、かつ、自分のディスりたいという欲求を抑えることもなく、その両者を同時にバランスをとることに成功している」と言うことができるだろう。したがって、この「ディスって知性を身につける」という、この本の著者の趣旨というのは、一概に、悪いわけではないんだろうな...と、少なくとも、途中まで、このオーディオブックを聴いた僕としては、そのような所感(感想)を抱いた。

 このことからも、わかるように、一概に、「相手」をディスったり、叱ったり...といったことが、本当に悪いことなのか?と、問われると、それはそこに至るプロセスと状況や相手により、全部が全部、「悪だ」と、言い切ることはできないんだろう...という結論(conclusion)を持つようになってきた。この他のオーディオブックにも、「文豪たちの悪口本」というのがあったけれども、これは正直、口が悪いような気がしたので、途中で聴くことをやめてしまったが、こういった文豪たちの悪口の良さというのも、どこかにあるはずだ...というのも、どこか自分で自分に対して、詮索しているというか、「無意識の検索」をかけてしまっている自分もいたりして...ただ、こういった悪口や、「ディスる」ということが成立する大前提として、「自分には、ここまでこれだけ精一杯、努力をし続けてきて、これだけのポジションを確率することができた!」という「実績」に基づくものがあるからこその裏返しの理屈(論理)として成立しているから、そのような気がしているのであって、これが単に、大した努力も苦労もしていないのに、悪口だけは達者な人とかだと、その悪口が「意味」を持たないのも、それもそうだし、聴く側としても、普通は、そんなにserious(真剣)なfeelingを併せ持って聴こうという態度も、あらかじめ、持ち合わせる気もしないことだろう。おそらく、それは別に僕だけに限った話ではないはずだ。ここに「何」を言ったか?ではなく、「誰」が言ったか?が、問われることのパラドックス(論理構造)が存在する。