最近、改めて痛感させられるのが、「仕事」に対して、どこか臆病な気持ち、心持ちになっているんだなあ...ということ。たしかに、これまでの経歴やキャリアを観た人からしたら、「順調にキャリアアップを果たしてきた。努力してきた方なんだなあ。」という心象・印象を持つキャリアコンサルタントの方が、その大多数を占めていて、コンディション面で苦労しているため、契約更新ができなくなった...や、転職せざるを得なくなった...という、消極的な理由から、転職をし続けてきた...という見方をしてくるキャリアコンサルタントは、一人としていないということ。もちろん、キャリアシートのみを見て判断しているわけだから、そうならざるを得ないのは、当然のことなんだけれども、例えば「大手コンサルティングファームに入れるチャンスがあります!昔とは違います!」という謳い文句を見ても、「結局、入ってから苦労して、これまでと同じように、どこかのタイミングでつぶれてしまうんだろうなあ...」という心情から、全然、惹かれないというか、「もっと現実的な落としどころを考えてくれ!」というような感想に、常になってしまうし、どこかで「キャリアアップは、もういいから、安心して勤められ続けるところを紹介してくれ!」という、心の叫びが、自分の内面から、自然と聞こえてしまったりする。

 「これまでたくさんの努力を積み重ねてこられた方とお察しします。」というフレーズで来る、スカウトメールもあったけれども、「たしかに、これまでたくさんの努力を積み重ねたには、積み重ねてきたけれども、コンディション面で、ギリギリの綱渡りをしてきて、これ以上、さらに努力を積み重ね続けるようなことを前提としたポジションには魅力を感じることが、物理的にできない。」といった、心の声が聞こえてきてしまって、自然と「返信する気が起きない」といった事態になってしまっている。しかも、一人暮らしをして、身の回りのことを完全に自分でやって、仕事をやれてこれたわけではないから、ますます、「仕事と勉強に、これだけの時間を費やしても、コンディションはもとより、これ以上のポテンシャルを発揮できることは望めなさそうだ...」といった心の声が聞こえてくるようで、「わかってないなあ...」と、思ってしまうというのが、僕の正直な本音だ。

 このような事例から考えるに、やっぱり、キャリアコンサルタントというのは、改めて「営業職」なんだなあ...ということを再認識させられる。基本的に、人材紹介会社や人材派遣会社というのは、登録者あってのビジネスであるとはいえ、紹介先企業からフィー(報酬)を受け取っているため、登録者の経歴の背景にある問題というのを、仮に伝えたとしても、産業カウンセラーの産業カウンセリングのように、そこまで深い傾聴や、共感をしたり、うなづきをしたり、新たな可能性を示唆したり...といったようなサービスは提供していない。もちろん、そのこと自体は、理解しているけれども、少なくとも「転職の伴走者」として、それなりに、メンタルヘルスに関連するような問題についても、取り扱ったうえで、「じゃあ、こういうポジションで、このぐらいの業務負荷のものがいいですね。」といった助言をしてもらいたいものだ...と、そのように思ってしまう。もしくは、アメリカの企業で、すでに導入されているEAP(企業における定期的な産業カウンセリングサービスの導入を主としたメンタルヘルスプログラム)のような形で、これまで、どんな苦労をして、どのレベルの業務負荷まで耐えられて、どのレベル以上の業務負荷だと負担に感じてしまうのか...などを、転職して企業を渡り歩いていたとしても、その背景にある問題や、心情の変化を体系的に把握できるようなプログラムを必要としている人たちというのは、僕が思っている以上に(欲している人が、)多いのではないだろうか...と、考えている。そういう側面で考えると、いわゆる、産業カウンセリングの役割というのは、当然のことながら、日本においても、大きいものがあるんだろうなあと、しみじみと考えさせられる。

 僕は20代のころに、日本生産性本部のキャリアコンサルタント養成講座も、受講した経験があるのだけれど、そこで思ったのが、この「キャリア」という言葉の意味の深さであったり、この「キャリア」という言葉が指し示している意味の幅広さであったりといったものを、本当に深く、そして幅広く、捉えているんだなあ...ということで、一言で言うと「キャリア=人生」という捉えかたをしているということだ。そこまで深く、幅広く「キャリア」という言葉の意味を捉えたうえで、助言をしてほしいというのが、僕の本音であるわけなんだけれども、なかなか、そこまで一歩踏み込んだ、相談を持ちかけることができるようなキャリアコンサルタントは、そうそういるわけもなく、まあ、収益の構造上から考えたならば、当然の話だと言うことも、できるのだけれど、もうちょっと、なんとかならないものかと思ってしまう。