どうも最近、母親との心理的距離みたいなものが、少し離れてしまっているような気がしている。もちろん、共通の話題を持ちづらくなったというのも、それはそれで一つの要因だとは思う。昔みたいに、株式の銘柄の話で盛り上がったりすることも、少なくなったし、(これは僕が、直近の株式投資で失敗して、かなりの含み損を抱えてしまい、聴く日経などのコンテンツを聴くことを、ルーティーンとして取り込みづらくなったというのも、要因の一つだとは思う。)昔みたいに、同じ日本のドラマを観ることによって、共感したり、感動したりする...といったことも、なくなってきているから、この二つの要因自体は、たしかに、心理的な距離が、少し開いてしまうのに、ひと役買ってしまっている...というのは、たとえ、僕ではなくても、同じような心理的な距離は感じてしまうことだろうとは思っている。しかしながら、僕が感じている心理的な距離というのは、このような単純な要素で構成されてくるような、距離の開きとは、どうもちょっと違うような気がしている...というのが、僕の正直な心境だ。

 もちろん、今現在において、約1年近くも、仕事から離れてしまっている(離職してしまっている)期間があるというのも、母親として、不安材料なんだとは思うのだけれども、どうも、そのような「経済的理由」から、生じているもののようにも思えないし、もしくは、僕の日常生活の過ごし方が、「リハビリテーション」チックになってしまっていて、一定レベルの規則正しい生活や、資格勉強のルーティーンを、当初、想定していたよりも、回すことができていないというのも、多少は相関関係があるのだろうか...とは思うが、なんというか、自分の思ったことや、考えたことを、「思った通り」や「考えた通り」に伝えてしまうと、結果として、心理的な距離が、離れて行ってしまうといったような状況に、比較的、なりがちというか、どこか、母親のほうが、我慢をしているように見えて仕方がないかのような感覚が残ってしまっている...というのを、僕が実感する瞬間、瞬間というのが、少なからず、この一年間の離職期間中に、増えてしまっているような気がしてならない。

 まあ、これまでの母親との会話における、心理的距離感というのが、一般的な母親と息子の関係よりも、どこか心理的距離自体そのものが、近かった...ということも、言えるのかもしれないし、僕が助けられている側面も、多いのかもしれないけれども、何故、父親との関係では、心理的距離が開いた感じがしないのに、母親との関係では、心理的距離が開いた感じがしてしまうのか...?と、その前者の関係性と、後者の関係性において、何がそんなに異なっているんだろうか...と、ふと、考えさせられてしまうし、どこか、心理的距離が、もう少し近かった昔の母親と僕の関係性に、戻れたらいいなあ...と、思ってしまう自分がいて、「まあ、そんなに深く考えることじゃないよ。ただ単純に、お互いに年をとったというだけじゃん。」という意見が、聞こえてきそうだし、もしくは、「うーん...一人暮らししていたり、結婚している人たちは、それこそ、もっと心理的距離が開いているのでは?そんなに難しく考える必要がなくない?」という声も聞こえてきそうだし、もしくは、「相手の好きな話題や、求めている話題を、単純に提供できなくなったからだけなのでは?」という声も聞こえてきそうだ。

 このような事例を、振り返ってみても、改めて思うのが、「共通の話題」がいかに、その心理的距離を縮めるのに、useful(役立つ)なのかということ。この「共通の話題」があるだけで、話はそれなりに盛り上がりやすいし、一緒に笑ったり、コミュニケーションのキャッチボールがしやすかったりする。これは何も、ドラマや株式投資に関する話題に限った話ではなくて、例えば、同じ仕事の話にしても、エンジニアならばエンジニア同士、経理だったら経理同士、営業だったら営業同士、販売職だったら販売職同士のほうが、「仕事の話題=共通めいた話題」ということにつながり、必然的に「親近感」であったり、「親密感」といったものを感じやすくなると思われる。他にも、同じアニメの話題で盛り上がるとか、同じゲームの話題で盛り上がるとか、「ゲームって、自分がプレイするだけだから、完全に一人の世界でしょ?話題にしようがなくない?」と、思った人もいるかとは思うが、僕も、やっているゲーム、「集まれ。どうぶつの森(通称:あつもり)」では、本当にやりこんでいる人だったら、この「あつもり」の話題だけで、盛り上がることができるらしい。僕は、どうやってこの「あつもり」を話題にして、会話のキャッチボールをしていくのか、正直、イメージが湧かないのだけれども、これと同じように、「話題」としても使うことができるゲームというのが、少なからずあるはずで、それは、そのゲームのやり込み方と、そのやり込みの深さに、比例するかのように、盛り上がる確率が上がっていくはず...と、考えているのだけれども、どうだろうか。

 ドラマにしても、ゲームにしても、アニメにしても、ついつい、一人でそのコンテンツを消費する(そのコンテンツをやり込む)ことに終始しがちだけれども、本当にやり込んでいる人と言うのは、その「やり込んだ経験」を、話として、上手にアウトプットすることができるんだと言うことを、最近、改めて実感させられていたりもするのかもしれない。