芸術活動などの分野によくあるのが、「発想が思い浮かばない」や、「新しい作品が創れない」というのがある。ずいぶん前に、CHAGE&ASKAの飛鳥も、新しい曲を創ることができずに(ヒットするような曲を創ることができずに)、苦しんでいたために、覚せい剤に、手をだしてしまった...というニュースがあったが、これこそまさに、新しい「アウトプット」やcreation(創造)をすることができずに苦しんでいる代表例だと言うことができるだろう。予備校講師の林修は、何が一番やりたかったことか?と、問われた時、「本を書いて暮らしたかった」と答えていたそうだけれども、それにしたって、林修氏が、一番、書きたかった本である「すし、うなぎ、天ぷら」という本については、出版したはいいけれども、林修氏が書いた本の中で、一番、売れなかった本だったらしい。今でこそ、中古品で、少し高値でメルカリなどで売買されているが、それは「購入した人」の少なさを如実に物語っていて、端的に言ってしまえば、レア(貴重)な品物と化している。この林修氏が、提唱している社会に必要な能力というのは、どう考えても、創造と解決だと、口をすっぱくするほど、言っていたが、この「創造」にあたるのが、「本を執筆する」ということや、「新しい曲を制作する」などの芸術的な活動が、そのrepresentative example(代表例)だと言うことができるだろう。

 これらの芸術活動が苦しいのは、発想やネタが思いつかない時においても、何らかの成果物をアウトプットしていかなければいけない点で、この点において言うのであれば、「解決」をする類のoccupation(職業)よりも、明らかに難易度が上になってしまうことだろう。スムーズにアウトプットができている時こそ、「人生が楽しい!」や、「幸せ!」といった感情が、当然のことながら(自己表現をスムーズにできていて、かつ、それを生業とできていることから)、次から次へと、湧き起こってくること間違いなしなんだろうけれども、その「発想」や「ネタ」が切れてしまった時でも、「新しい作品」を生まなければいけない!ということから来るプレッシャーたるや、それはもう、凄まじいものがあるに違いない。なぜならば、本ならば、〇万部以上、楽曲ならば〇万回再生以上といった形で、当然のことながら、目標とする「数字」が、おそらく、あらかじめ想定されているのだから。はっきり言って、正直、これは辛いと言わざるを得ないのではないだろうか。そして、「結果を残した作品」=「クオリティーが高い作品」と認識されてしまうがために、自分自身が、本来的に表現したいものとは、また違う表現(expression)をrequirement(要求)されたりすることから、どうしても「純粋に良い作品」や「自分の納得した作品」のみを追求していられるのか?と、問われると、それがそうはそうでもない芸術家も、中にはいるのではなかろうか。ちょうど、林修氏が「すし、うなぎ、天ぷら」という書籍で、結果を出すことができなかったように。

 そして、マズローの5段階欲求説の中の「自己実現の欲求」に終わりがないように、この芸術的な活動も、はっきり言ってしまえば、終わりがない...まあ、どのような仕事も、いわゆる「達人の道」を目指す以上、終わりはないのだけれども、この芸術的な活動で、「終わりがない」というのは、他の「会計実務や法律実務の勉強で終わりがない」のとは違って、模範や規範となる理論体系上のよりどころのデファクトスタンダード(事実上の業界標準)のようなものが、実質的にないというところに、「苦しさ」があると言えるのではないだろうか。つまり、公認会計士にとっての企業会計原則や、弁護士にとっての六法全書などのように、困った時、ここに立ち返ればまず間違いない...というようなよりどころが、なかなか見当たらないのではないだろうか。一応、音楽理論などはあるとは思うのだけれど、前述のそれと違って、そこまで大きなよりどころとして、成立するのか?と、問われると、正直、クエスチョン(?)なのではないだろうか。ここが、いわゆる、芸術家(アーティスト)と呼ばれる人たちの多くがぶつかる壁の一つのように思えてならない。だからこそ、僕は純粋に、芸術家に対するrespect(尊敬)というのを、やめることができないんだろうなあ...と。