仕事を通じて、自分を「自己表現」している人というのは、もうそれだけで、マズローの5段階欲求説の自己実現の欲求の段階に踏み込めているのではないだろうか...と、思ったりする時があるが、果たして、どうなのだろうか。一般に、「自己表現」と言うと、YOUTUBERやプロブロガーなどが思い浮かぶのだけれども、それ(自己表現)は、これまで経験・体験してきた自分の内面からあふれだしてくるものが、自然と適度にアウトプットし続けられている状態を指し示しているのであって、その経験・体験してきたことや、疑似体験してきたこと(本を読んだり、音楽を聴いたりすること)の量が足りずに、自己表現するアイデアに悩み苦しむことではない。もちろん、「そりゃそうだよ!」と、思う人は、当然のことながら、そのように思うのかもしれないが、それでも「YOUTUBERがうらやましい!」だったり、「プロブロガーがうらやましい!」であったり、「芸能人がうらやましい!」だったり、「作家がうらやましい!」だったり...と、いわゆる、自己表現することを生業としている人たちのことを、無意識のうちに、うらやましがってしまうのは、僕だけではないだろう。

 じゃあ、その一方で、それ以外の職業の人たちは、いわゆる「自己表現」をしていないのか?と、問われると、やはり答えはNO、つまり「自己表現はしているはずだ」ということになることはなると思わざるを得ない。経理マンは経理処理を通じて、営業マンは営業活動を通じて、接客業の人は接客を通じて、システムエンジニアはプログラミングを通じて、少なからず、「自己表現」それ自体は、やっぱり「している」という、判断をせざるを得ないと思われる。しかしながら、そこ(自己表現」には、数々の制約があり、その制約(ルール)の枠内で、自己表現(仕事のアレンジ)をしていくのだったらいいけれども、それ以外は、きちんとルールに沿ってやってくださいね...ということになるのが実情だろう。つまり、自分の好き嫌いや、自分の個人的な感情などで、好き勝手に仕事していいというわけには、当然のことながらいかない。YOUTUBERやプロブロガー、作家は、どうなのかと言えば、好き勝手にやっていても、「再生回数」という結果や、「〇万部」といった結果さえ残せば、好き勝手に書いたり、制作をしていても構わない...というのが、実情だろう。(もちろん、締め切りを守るや、規約を破らないなどの最低限のルールはあるけれども)つまり、この「結果さえ出せばよい」という、超実力主義の代償として、好きに表現していいですよというのが生まれている...という見方ができると言える。こういった背景を踏まえると、改めて「結果」に責任を負うというのは、それなりに大変なポジションなんだなあ...と、しみじみと思ってしまう。

 だから、僕のブログというのも、あくまで「趣味」として書いているから、いわゆる「自己表現」になっているとはいえ、「結果に責任はまったくない」といったところに、どこか魅力のようなものを感じてしまうんだろう。(もちろん、全く収入にはつながらないけれども)

 これと同じような関係性というのが、いわゆる、プライベートにおける友人関係や恋人関係かと思われる。この関係についても、いわゆる会話を通じて「自己表現」をして、結果として、お互いに、comfortable(居心地の良い)な関係性が維持できるのであれば、お金・時間を割いてでも、会う時間を作ることになるし、そうでないのであれば、その関係性は続かない。(結果として、関係性が続くかどうかという責任は負うことになるが、収入目当ての関係性では、もちろんない。)

 その一方で、僕は、いわゆる「士業」と呼ばれる、弁護士・会計士・税理士・社労士などの専門家については、学習した内容をまんべんなく、普段の仕事・業務にアウトプットしているという点において、仕組み的には、どこかちょっと「自己表現の仕組み」と似ているなあ...と、思ったりもしている。つまり、これまでの経験・体験の中に、「資格試験勉強」というのが、含まれてくるため、これまでに、経験・体験してきた自分の内面から、あふれてくるアウトプットの一種という解釈も、できないわけではないのではないか...と。もちろん、資格試験と実務というのが、完全に連動するわけではないが、それなりに自己表現ができているっぽい感じというのは、一般的な職業のそれよりも、実感として大きいものがあるのではないだろうか。