普段のルーティーンワークに組み込み続けてきたアクティビティ(活動)というのは、やっぱり、多少、億劫さが残っていたり、コンディション的に不安定であったとしても、その活動するためのエネルギー自体が少なくて済むため(省力化されたエネルギーで済むため)、そのアクティビティは、リハビリテーションや頭の体操になって、認知能力の維持・向上に役立っていると同時に、やる気や意欲を回復するためのfunction(機能)についても、備え合わせている...ということも、できるのではないだろうか。例えば、僕は昔(20代中盤頃)から、いろんな転職サイトを見て、求人情報を収集するのと同時に、その求人情報を必要としている可能性のある友人に対して、ピンポイントで、求人情報をproposal(提案)するといったことをルーティーンにしていた時期があり、この活動を始めた当初の頃こそ、「ちょっと面倒くさいなあ...」とか、「転職活動自体が億劫だなあ...」と思ってしまう自分がいたけれども、活動を続けていくうちに、「転職サイトを閲覧し続けることそれ自体が、まるでスマホゲームをやりこむかのように、楽しくなってきていた」という感情体験がある。よく母親に、「転職活動をしている時が、一番、生き生きとしているね。」と、言われていたのだけれども、それはその通りだろう。やっぱり、初めのほうこそ、億劫さはあったけれど、その当時は、どこかで「楽しい!」と、そう思わせられていたからこそ、その雰囲気が伝わって、親にそのようなセリフを言わしめるまでに至った...ということは、当時の自分の心境を振り返ってみると、改めて、本当に楽しい!と、思っていたんだなあ...ということを、再認識させられる。

 これも、転職活動それ自体を、その「熱量」が高い時に、「ルーティーン」に組み込むことができていたからこそ、実現することができたemotion(感情)だと言うことができるだろう。ただ、この「熱量」というのも、年齢や年代に応じた熱量というのがあって、a little bit enthsiastic(少し熱狂的)な感情を伴うemotionというのは、そうそう、いつまでも続くことでもない...ということは、僕自身の経験(体験)上、言うことができるだろう。ホリエモンが、多動力(だっけかな?)の本の中で言っていた言葉の中に、「猿のようにハマり、ハトのように飽きろ」というセリフがあったりとか、千田琢哉さんの本の中に、「やりたいことがわかりません。どうしたら良いでしょうか?」という質問に対する回答に、「三日坊主のコレクションをして、つい、四日目以降もやってしまったことが、あなたの本当にやりたいことだ!」というのがあったけれども、この「熱量」や「enthsiasm」というのも、それぞれに、「ハマる」時期というのがあると思っていて、言うなれば、「公認会計士講座のお金を出してあげるから、資格の専門学校に通いなさい。」と、親から言われたとしても、当然のことながら、やりたくない人はやりたくないし、また、それが適切な時期や年齢ではなかったとしたら、「(タイミング的に、)もう遅いよ。」ということに、なってしまうことだろう。これは何も、勉強だけに限った話ではなくて、恋愛やアニメ・漫画などの趣味の分野についても、同じことが言えて、言うなれば、高校生の時に好きだった人に、30代になってから、「好きでした。」と言っても、やっぱり、「(タイミング的に、)もう遅いよ。」ということになってしまうケースが、そのほとんどを占めているのではないだろうか。これを一般的には、「活動の旬」と呼ぶのだろう。その「熱量がある時の旬(時期)」に、その純粋な熱量に応じたactivity(活動)を、きっちりとこなしていくということが、その人の将来の可能性を、さまざまな面で向上させていくためにも、また、その人自身の生活を充実させていくためにも、それなりに、その熱量を、きちんと消化していくということは、とても意味の大きなことなのではないだろうか。(とても意義のあることなのではないだろうか。)

 実際、僕は30歳ぐらいの頃から、英会話を始めたのだけれども、その時と同じだけの熱量を、僕はもう持ち合わせていない可能性が高いだろうし、さまざまな転職サイトを閲覧し続けたり、友達に紹介したりする熱量というのも、正直、今は、持ち合わせていないと思われる。また、専修大学在学中に、受講していた税理士講座の簿記論・財務諸表論の学習についても、もし仮に親がお金を払ってあげるから、また通ってみなさいと言われたとしても、その当時ほどの熱量は、残念ながら持ち合わせていない。

 これは当然のことながら、遊びにも言えることで、カラオケに対する熱量や、ゲームに対する熱量、漫画やアニメに対する熱量というのも、10代・20代の時ほどの熱量を(当然なんだけれども、)持ち合わせているとは言い難い側面が、正直、ふんだんにあると言ってもよいと思われる。鉄は熱いうちに叩けではないけれども、その「熱量」というのは、単純に「お金」では買うことのできない貴重なresourse(源泉)であると言うことは、これまでの経験・体験から考えてみても、まず間違いなく、言えることなのではないだろうか。