どうも朝食をしっかりと食べずに、昼食を取った後で、コーヒーを2杯ほど飲むと、少し手が震えやすくなる傾向があるような気がする。そもそも、自分の抱えている症状の根本原因を探っていくと、その根幹には、「緊張感」と「過度の交感神経優位状態の継続」から来る、心身症だと言うことができるのだけれども、どうもこれらの症状と、コーヒーの相性と言うのが、決して良いとは言えないようで、こうやって、ブログを書くために、タイピングを行っていくことを続けていくと、この手の震えの症状が、徐々に消失していくかのような感覚になっていくのだけれども、これは、いわゆる森田療法で言うところの「あるがまま」と「目的本位の行動」を実行して、精神交互作用による症状への意識の「囚われ」が、自分の顕在意識上から、少しずつなくなっていくからだ...という見方ができるのだが、これが、背中の背筋であったり、脚の筋肉の緊張であったりした場合、この「指先の震え」に対する「タイピング」のように、「目的本位の行動」を、目に見える形で、実行に移しづらいという実情がある。

 昔、読んだ森田療法の本の中に、「頭が重いなら、頭が重いまま、放っておいて、自分がなすべきこと(受験勉強)を、ただ淡々とこなしなさい。」というのに対して、患者は「でも、頭が重くて、思うように勉強ができないのです。」と返し、さらに医師は、「どうも神経質な人は、物事をある一定の静止した状態で見るので、困ります。雑草を見てごらんなさい。何度、踏まれても、その雑草は伸びていくでしょう?これが、「あるがまま」という状態です。」と森田正馬の弟子は返したと言う。これはこれで、理屈としては、よくわかるのだけれども、果たして、この「理論」を「実行」することで、いわゆる「囚われ」からくる、ありとあらゆる症状が、「すべて」解消していくのか...?と、問われると、すべての「症状」に対して、この「理論(考え方)」を、あてはめていくのは、やっぱり無理があるし、その効果の度合いというのも、この「理論」との相性の度合いにより、かなり、その程度が異なっていく...と言わざるを得ないだろう...つまり、朝食を抜いたことによる影響に加え、コーヒーを2杯飲んだことによる影響程度の影響で、指先が少し震えるなあ...程度であったならば、この「理論(考え方)」は、非常に有効な手段の一つだと言えるのかもしれないが、明らかに、その真因(原因の原因)が、適応障害のように、「職場」などの外部環境における人間関係に依拠しているのであれば、当然のことながら、「外部環境の調整」が必要になってくる場面もあるだろうし、あるいは、その真因が「死への恐怖や囚われ」であったとしても、その「症状性質」が、明らかに、身体面ではなく、精神面に深刻なレベルで影響を及ぼしているということであれば、残念ながら、この精神交互作用を、目的本位の行動によって抑えていく...というだけでは、やはり療法と症状の相性がマッチしていない...と言うことになりかねないのではないだろうか。

 また、あるいは、「恐怖突入」という考え方を用いて、言うなれば、これ(アルバイト)をやらないと、生活が間々ならなくなる...といったような、一種のショック療法的な認知行動療法(と、僕は考えているのだけれども)を行って、言うなれば、泳げない子供を、プールに連れて行って、飛び込み台の上から、いきなり突き落とし、ここで泳げなければ、自分(子供)は死んでしまう...といった状況に追い込み、「泳ぐ」という行為を、半ば、強制的に実行させる...といったような考え方もある...ということを、昔、森田理論の本で読んだことがあるのだけれども、この「理論(考え方)」それ自体は、たしかに、effective(有効)な状況(situation)や、時期というのは、当然のことながら、あるのだけれども、それは「状況のレベル」によるのではないだろうか...というのが、僕の正直な実感(感想)だ。

 最近、読んだ本にユング心理学入門と言うのがあるが、ここで言うところの「心像」に対するインパクトの度合い、言うなれば、影響力を持つ度合いが大きければ大きいほど、この「恐怖突入」という理論(考え方)のみで、窮地に陥った自分を救い出す...というのは、どうも無理があるような気がしてならないのは僕だけだろうか。このことから、考えてみても、いわゆる「認知行動療法」的なアプローチには限界がある場合もある...と、言わざるを得ないのではないだろうか。