僕がGabaマンツーマン英会話で、英会話のトレーニングをしていたころ、初めは、正直、「日本語禁止なんて、一種のいじめじゃないか!」と、思っていた節が、確実にあったし、少しでも日本語を話すと、当然のことながら、応じてくれなかったので、当初は、本当に大変な気が確実にしていたと思うし、テキストにはめた、いわゆる「型どおり」のレッスンが、ほとんどだったりしたので、なかなか「英語を話す」という「楽しさ」そのものを、全然、実感することができずにいた。これは、「英会話」に限らず、いわゆる、大学受験用の英語や国語、世界史や日本史の勉強でも、同じことが言えると思っていて、いわゆる「見たことのある単語」であったり、「見たことのある用語」であったり、「その単語の意味解釈」ができたり...といったことが、できるようになって、ようやく初めて、少しは「楽しさ」を実感できるような時間が増えていくのだと思っている。ただ、これらの勉強の堅苦しいところというか、なんでもっとカジュアルに、ラフに(その勉強それ自体を)、捉えられないのだろうか...というのは、これはおそらく、「英会話のフリーカンバセーション」みたいに、「自由に話せる」前提がないところや、「ブログを書く」みたいに、「自由に自分の意見やコメントを書ける」という前提がないというところに、起因しているのではなかろうか?と、僕は思っていて、言うなれば、学習の主体が「アウトプット」して、「気持ちよく話せる」前提でなかったり、「気持ちよく書ける」前提でなかったりとかして、comfortableさ(快適さ・居心地の良さ)というのを、別に、特に追求しているわけではないからなのかな?と、個人的には、そう思っている。だからこそ、ツイッターのような、自由に短い文章を書ける...というようなコンテンツに価値を感じるわけであるし、インスタやフェイスブック、YOUTUBEにも、同じようなことが言えると思っている。言うなれば、この「クリエイティビティ」な感じ、すなわち、創造的なことをやっている感が、どこかしらで、心地が良いから、このようなcustom(習慣)というのは、続きやすいし、肩ひじを張らずに、自然体で(自然と)続けることができている...という状態を作りやすいのではないだろうか。

 これに対して、受験勉強をはじめとした、いわゆる「学校における勉強」というのは、まず「型」と「知識」を覚えることから、入っていくので、よっぽどの興味関心が、その科目にない限りは、どこか修行しているような感じがして、あまり「楽しんでいる」という感覚が、非常に湧きづらい。(一部の人を除いては)

 日本史や世界史などの科目についても、東京大学の日本史・世界史ならば、ルールと制約を守った上で、どこか「自由に論述している」感じを、少しは実感できるようになるのかもしれないが、ほとんどのケースでは、個人的な見解や意見などは求められずに、あるいは、その歴史上の人物になったとしたら、あなたは、どのような政策を打ち出しますか?といったような、自由論述的な、個人的見解は、求められてこない。正直、僕は「この差」は、勉強を「楽しむ」うえにおいては、非常に大きいと思っていて、これが「英会話のフリーカンバセーション」や、「ブログを書く」ことなどであると、ある種、自分自身も、どこか楽しんでいる感覚が出てくるし、後で振り返ってみて、「ああ、自分はこんな意見を持っていたんだなあ...」とか、「ああ、自分はこういう考えをしていたのか...」みたいなことが、出てきたりとかする。

 それだったら、日常生活における「会話」でもいいのでは?と、思ったかもしれないが、なかなか、この「壁打ち」のような自問自答や、自分は、こういうことを考えていたのか!という発見というのは、会話だけでは、見えてこないことがあり、それを相互補完的に補うような形で、ブログを書いたり、ツイッターをしたりするという位置づけなのかもしれない。オンライン英会話のフリーカンバセーションは、それなりに、長い期間、楽しむことそれ自体は、まあまあできていたのかもしれないが、やっぱり、英語ということもあって、それなりに準備しているかor話し慣れている話題でないと...という前提があるため、現実的な選択肢としては、やっぱり、ブログやツイッター、フェイスブックなどが有力な選択肢として挙がってくる。

 何かの本で、資格試験勉強でも、受験勉強でも、友達と話しながらのほうが、より頭の中を整理できて、勉強効果が上がるという人もいれば、テニス漫画のベイビーステップの主人公のように、その都度、その都度、ノートにまとめながら、そのノートを見返して、考察して、自分の弱点を補強していく...であったり、頭の中を整理するであったり...といった方法のほうが、向いているという人もいる。ただ、一つ言えるのは、「話す」以外に「書く」という作業も加えたほうが、僕の場合には、より「気づけなかった」ことに、「気づける」確率が上がりそうだ...ということだ。