家族や友人、恋人と話している時に、自分さえが普段、意識もしていなかった言葉が、ふと出てしまう...といった瞬間がないだろうか。これは、その「言葉じり」も含めて、「つい、自分の本音が出てしまった!」ということを、表していることが、時として意味しているのではないかな?と、推測される。同じように、このブログを、「一人」で、ただ「書いている」だけでも、時として、「つい、自分の本音を書いてしまった!」ということを、表していることが、時としてあるのではないかな?と、推測される。

 「あ、自分って、こういう意見を持っていたんだ。」とか、「あ、自分って、こういう考えを持って、この行動をしていたんだ。」とか、「自分の人生にとって、大切だと思っていたのは、このことだったのか!」といったような、いわゆる「本音」に気づかされるパターンだ。

 ただ、この「本音」が漏れるかどうか?というのは、初めての初対面の人に対しては、警戒心を抱くだろうし、知人ぐらいの人だと、「ここで、本音を言ってしまったら、失礼にあたるから、やめておこう。」といったような、「無意識レベルでのブレーキ」が、(僕に限らず、誰でも)かかりやすくなるため、ある程度以上の信頼関係や、「親密さ」がなければ、この「ふと出てくる言葉」の確率が、下がってくるのでは?とも、思っている。もちろん、なんでもかんでも、本音を話せばいいってもんでもないし、親しき仲にも礼儀ありといった言葉が示しているように、相手に失礼にあたるor相手との関係性が悪くなることが、あらかじめ、わかっているのであれば、この「本音」は、当然のことながら、「ふと、漏れない」ほうが良いに決まっているとは思う。

 ただ、僕が昔、よく読んでいた本の著者の千田さんと言う人が「本音一発勝負」といったことを書籍の中で述べていたりとか、ホリエモンなんかも、「建前はいらない。本音で生きろ。」といったようなメッセージを投げていることが多いことからも、一般的な自己啓発本的なものに掲載されているメッセージというのは、「本音」で、生きることの重要性を繰り返し、繰り返し、述べているパターンが非常に多い。もちろん、「本音で生きる」のと、「(なんでも、かんでも、)本音を言う」のとでは、全然、意味が異なってくるし、そこに含まれてくるメッセージ性というのも、大きく変わってくるだろう。

 しかしながら、僕が常々、昔から思うことは、建前の人間関係が、あまりにも多すぎるのでは?ということは、感じるには感じなくもない。「建前9割:本音1割」、下手すると、「建前10割:本音0割」みたいな人間関係を、ものすごく大事に思っている人たちが多すぎなのでは?と、思ったりする瞬間がなきにしもあらずだ。あくまでも、僕個人の意見なのだけれども、いつまでたっても、建前しか話せないのでは、まるで、職場の意見の合わない上司と、いつまでも一緒に話しているようなもので、そこには、「話す楽しさ」みたいなものが、全くと言っていいほど、現れて来ないのでは?とも思うのだけれど、いかがだろうか。もちろん、建前には、建前の良さがあるのは認めるけれども、それを比率9割以上にしてしまっては、せっかくの「自由時間」なのに、まるで「仕事時間」かのようになってしまうのでは?と言うのが、僕個人の意見だ。

 僕は、「本音」を言うとは、一種の「自己表現」でもあるとも思っていて、それはつまり、マズローの五段階欲求説の「自己実現の欲求」とも、少なからず、結び付いているのでは?とも、思ったりしている。そもそも、僕が2人~3人程度の人数で、飲みに行ったり、カラオケに行ったりして話すのが、大人数の飲み会よりも好きな理由は、実は、こういうところ(本音をある程度、話すことができるところ)にあるのではないか?と思ったりもしている。これが、6人以上や10人以上となると、ある程度、その場の「空気」に、自分の意見ですら、無意識のうちに合わせてしまっている自分もいたりとかしていて、(まあ、それ以前に、会話の流れについていくのが苦手なのだけれども)そして、本音を言うと、「ドン引きされる」ような空気感を、どこか醸し出しているのは僕の気のせいだろうか。もちろん、大人数での飲み会は、飲み会で、つまらないわけではないのだけれども、正直、「ああ、楽しかった!」という気分になりづらい気がしている。

 こうしたことを踏まえて、あくまでも、「建前」の比率を、多くしていきたいのだったら、それはそれで、その人にとっては、それ(建前を多くすること)が正解なんであろうし、逆に、「本音」の比率を、多くしていきたい!と思うのだったら、それはそれで、その人にとっては、それ(本音を多くすること)が正解なんだとは思う。