「腑に落ちた理解」をすることによる、メリットは単純に考えてなんなのだろうか...と、最近、ふと思ったりする。これは、文章や条文を「丸暗記」することではなくて、あくまでも、「覚えてはいなくても、理解それ自体はしている...」といった状態を意味しているのだけれども、すごく簡単に考えると、その「話題」と関連した「話題」のキーワードが入ってきた場合において、「あ、あの話のことを言っているんだな。」という、一種の高校や中学校の授業における「予習」のような役割を果たしている...と、言えなくもないのではないだろうか。「あ、先生が今、教えている部分、進研ゼミの5月号で、あらかじめ予習しておいた部分だ。二回目だから、すんなり、頭に入ってくるなあ。」といったような。これが、僕の中での「覚えてはいなくても、理解それ自体はしている...」といった状態のイメージなのかもしれない。

 で、話を「腑に落ちた理解」に戻してみると、この「進研ゼミ5月号であらかじめ予習しておいたので、すんなり、頭に入ってくるなあ。」という状態で、同じ範囲の、英文法の授業を受けた後、さらに、復習して練習問題を解答を見ずに、8割以上、正解できて、正解・不正解の解説を読んだ場合に、「あ、これ、先生が言っていた部分だ」という感想だけではなく、「たしかに、第三文型(SVO)にあてはめると、ここで、形容詞がくるのは、確実に誤りだな。」といったような、自分で自分に対して、ある意味、解説の補足をできるかのような感覚を持つことができるのかどうか?といったところまで突き詰めた上で、解説文を「読解」していく。あくまで、イメージに過ぎないけれども、本来的な「腑に落ちた理解」というのは、英文法で言えば、このような「思考プロセス」のことを指し示しているのではないだろうか。このバージョンの、高度なバージョンが、理系の数学なのかもしれない。

 僕も、文系数学を高校2年生まで学習していたけれども、文系数学ですら、頭が疲れそうで、大学受験の科目に選ぶ気にはなれなかった...というのが、正直なところだと思う。これは、知人から聞いた話だが、理系に進んで、数学を勉強はしていたけれども、解法の暗記をして、暗記で数学を乗り切ったという人がいる。そして、アメリカの情報系の大学に進んだらしいが、「自分は、実は数学ができない...というより、才能がなかったんだ。」と、言っていた。もちろん、数学を暗記で乗り切ることも、一つの方法ではあるのだろうけれども、プログラミングの学習が、そうでないように(「ソースコード」を暗記すればいいわけではないように)、大学で学ぶ情報系の学問領域に使用する数学というのもまた、いわゆる「暗記」では、どうやら、劣等生になってしまうようだ...ということを、この話を聴いて、改めて考えさせられた。この話だけ、聞いてみても、「数学」が、主要5教科の中で、一番、疲れる(疲労する)科目であることは、想像に難くないのではないだろうか。ただ一つ、疑問なのが、「数学」も「プログラミング」も、もっと言ってしまえば、「将棋」も、同じ「論理情報の処理」なのにも関わらず、「文系の大学」あるいは、「専門学校卒」、「高校卒」でも、プログラマーや、システムエンジニアとして、第一線で活躍している人達が、日本に、これだけたくさんいるのは、どういうことなんだろう?と、疑問に思わざるを得ないところがなきにしもあらずだ。僕も、ABAPと呼ばれる特殊なプログラミング言語の研修を乗り切った経験があるけれども、正直、「文系数学」よりも、「ABAP(プログラミング)」のほうが、「論理的思考力」を問われるレベルが高いな...と思った。まあ、そもそも、僕の「文系数学」の勉強の仕方が、「公式」を暗記して、その「問題」にあてはまる「公式」を探し出して、組み合わせたりする...といった、非常にシンプルな方法だったからなのかもしれないけれども、少なくとも、僕の実感としては、「プログラミング」よりも、「文系数学」のほうが、暗記要素は多かったと思うし、求められてくる論理情報の整理能力というのも、プログラミングのほうが要求されていたのでは?とも思ったりした。ただ、一概に、「プログラミング」と言っても、その能力レベルには、各個人・個人に大きな能力差があるのが実情で、やっぱり、かなり高度なプログラミングの能力を身に着けようと思ったら、文系よりも、理系の人たちのほうが、あらかじめ、その素養を備わっている可能性が極めて高い...と、言わざるを得ないのかもしれない。

 この「プログラミング」にとって、最も重要なのが、いわゆる、すでに紹介している「腑に落ちた理解」なのではないだろうか?と、僕は考えていて、「ソースコードの丸暗記」では対応できないことが、そのことを逆に証明してしまっている。たとえば、税理士試験の財務諸表論の理論科目や、税法科目の理論については、別に「丸暗記」の切り張りでも、正直、合格点が取れてしまう。この「ソースコードの丸暗記」で、まったく歯が立たないところが、文系の大学を出た人にとっては、歯がゆいところではないだろうか。「論理(ロジック)」を、そこまで深く考える必要が、少なくとも、僕の出身大学の専修大学商学部では、そこまでなかったように思う。だからこそ、このABAPのプログラミングの研修は、ある意味、税理士試験の財務諸表論の資格試験勉強よりも頭を使った側面があるとも言えるし、ないとも言える。ここで、「ないとも言える」と書いたのは、「暗記」をそこまでする必要がなかったから、あえて、「ないとも言える」という表現を使った。

 これこそ、「覚えてはいなくても、理解はしている」の状態の代表例とも言えるのではないだろうか。もちろん、必要最低限、覚えていなくては使えないのだけれども、それよりも、「腑に落ちた理解」をしているのかどうかという点が、これだけ、重要になってくるのか!ということを、僕は、このプログラミングの研修で、相当、実感させられたというのも事実だ。