よく昔からのことわざに、「一期一会」というものがあるけれども、たしかに、そのとおりではあるんだけど、正直、「もう二度と会いたくない!」といったような嫌な人というのも、少なからず、存在している...というのが、僕だけに限らず、他の人たちにも、ほぼほぼ、あてはまる話なのではないだろうか。

 僕はよく、昔から「日進月歩」とか、「能ある鷹は爪を隠す」とか、「一石二鳥」とか、「人事を尽くして天命を待つ」とか、いろんな、ことわざを漫画などで観たり、読んだりしては、「ああ、そうなのか。」と、素直に信じよう!という方向に、気持ちが働いていたのだけれども、前述の「一期一会」の例を一つ取ってみても、「まあ、そういうケースもあるけれども、全部が全部、そういうわけでもないよな。」といった捉え方から、少し外れてしまったりする認知パターンがあるような気がしていて、まあ、こういった認知パターンになりがちなのは、僕だけに限った話ではないのかもしれないけど、Mr.Childrenの言わせてみてえもんだの歌詞にある「古くからある迷信に見える理想の形。今と昔の同一線上。大切なことなんて、きっと知ってんのに、僕らは遠回りをしてるんだね。なら、意味ある遠回りを。」といった歌詞が、少しリフレインしたんだけれども、この歌詞の部分は、果たして、ことわざについてだったら、なんという返しをするのだろうか?とも、思ったりしていたりとかしていて。ことわざも、ある意味では、「理想の形」と言えなくもないけど、結局は、自分自身、ことわざを最初は信じて、時には盲信したりする時期や、タイミングがありつつも、「いや、これは全部が全部、そういうわけではないなあ...」と、立ち止まって、もう一度、自分の中で、そのことわざとの立ち位置だったり、距離感だったりを、考えなおしたりして、そのうえで、もう一度、修正したスタンスで信じてみる...といったことを、実は、僕らは、無意識のうちに、繰り返していたりするのだろうかと、思ったりもする。

 まあ、ことわざや、迷信の種類にもよるんだろうけど、その種類というか、属性が、自分の一種の信念や信じていることに近ければ近いほど、この「盲信」を、非常にしやすくなるし、何の疑いも持たずに信じることができるのではないだろうか。もちろん、基本的には、一種の「理想の形」でも、あるのだろうから、そのことそれ自体が、本当に本心から、何の疑いもなく、信じていることができるのならば、それはそれで素晴らしいことだと言えなくもないんだろうけれども、その、ことわざや迷信自体を、どのような場面、シチュエーションでも適用してしまうような、使い方というのは、わかりやすいかもしれないけど、果たして、本当に最適だと言い切ることができるのだろうか...とも、思ったりしていて、漫画「黒子のバスケ」の緑間真太郎は、なにかと、「人事を尽くしていない」というセリフを口にするけれども、「どのみち、人事を尽くしていないものと仲良くなどできんな。」というセリフについては、果たして、実際の人間関係というのは、そんなに単純なものなのだろうか...と、考えさせられたりもしなくはない。こういったケースが示しているように、何の疑いもなく、信じてしまうことは、時に、素晴らしいことかもしれないけれども、時に、過ちを侵してしまうリスクを同時にはらんでいるような気がしないでもない。

 でも、それを信じて救われることも、あるだろうから、あまり深く考えすぎてもいけないような気もしていたりする。ただ、僕が気にしているのは、色眼鏡というか、認知のバイアスが、かかりやすくなってしまうのではないだろうかということで、「そのことわざは、あくまでも、判断材料の一つにすぎない。」といったような、どこか自分自身のその認知パターンを俯瞰的に、客観的な視点でとらえ直すような、そんな見方を、普段から、どれだけできるのか?というのも、一方では、大切なんじゃないかなと思ったりしている。僕も含め、人と言うのは、意識しないと、どうしても主観に偏りがちなんじゃないかな。