自己理解(自分自身に対する理解)を、深めるために、どのようなことをすればいいのだろうか?と、最近、考えたりしているのだけれども、言ってしまえば、ある程度、「本音」で、話すことのできる間柄であるのならば、その「会話内容」や、「発言」それ自体が、いわゆる「気づき」となって、結果として、自己理解及び、他社理解を深めてくれるものになる...ということになるとは思っている。しかしながら、同じ「会話」と言っても、「建前だらけの会話」であったり、「空気を読みながら、本音を抑えつつの会話」であったり、あるいは、全然、「中身」というか、「自分の意見」を言えていないという会話になってしまっていたりすると、残念ながら、この自己理解を深めるための会話としては、当然のことながら、成立し得ないことになる。だからと言って、「建前」や、「空気を読む」といったことが無駄かと言えば、それはそれで、そんなことはないのだけれども、少なくとも、「同じような内容・会話」を、「同じ相手」と、「同じパターン」で話してしまっている場合には、その「会話」それ自体に対して、あまり価値(Value)がないのでは?という考えもなくはないだろう。特に、外資系コンサルティングファームなどに所属していた人から見たら、正直、このような会話というのは、いらいらさせられる...というのが、正直な感想ではないだろうか。

 もちろん、「いい天気ですね」とか、「お元気ですか?」といったフレーズ...これはこれで、僕はとても大切なものだと思うし、価値(Value)が生み出せているか否かのみで、その「会話」それ自体を判定され続けていても、そこには、全然、「息抜き」や「アイスブレーク」といったような、いわゆる「あそび」の部分が、全然、ないがために、それはそれで辛いものだとも思うし、ほとんどの人は、僕と同じように感じるのではないだろうか。だからこそ、外資系コンサルティングファームで、ロジカルシンキングが徹底的に身に着いているからといって、プライベートの場面でも、同じように、「数字は?」とか、「ファクトは?」とか、「結論は?」とか、言いまくっていたとしたら、それは、嫌な人になってしまうし、少なくとも、プライベートの場面においては、前述の「あそび」があって、しかるべき...だと思うというのが、僕の正直な本音だ。

 したがって、「プライベートの場面」で適している会話と、「ビジネスの場面」で適している会話というのは、ある意味、一線を画すとも思っていて、たとえば、「経営コンサルタント」として、クライアントに提案する際のプレゼンテーション術(プレゼンと言う名の会話術)と、彼氏・彼女あるいは、友達とおしゃべりしている時のトーク術(トーク術なんて、考えてはいないのだけれども、あえて、「術」と統一することで比較しやすくしてみた。)とで、同じような「会話」が期待されているのか?と、言ったら、全然、そんなことはないはずだ。もしも、これ(会話術)を同じものとしてしまった場合、あなたは、プライベートの場面において、嫌な人として捉えられてしまう確率が一気に上がってしまうことだろう。(前述の「数字は?」とか、「ファクトは?」とか、「結論は?」を考えてみたら、それはそうだ!と、思う人が大多数を占めるのではないだろうか。)

 だからこそ、ビジネスでバリュー(価値)を生み出せる人が、イコール(=)プライベートにおける人間関係も、充実させている人...という、線引きができないのだろうと思う。よく、「勉強をしなければ」とか、「大学受験の次は、資格試験勉強だ!」とか、常に、意識(少なくとも、「顕在意識」は)の上において、この「勉強」というのを常に意識させられ続ける...というのは、僕に限らず、誰でもある意味、とらわれてしまっていることだとは思う。もちろん、勉強は勉強で価値があるとは思うし、マーケット(転職市場)で生き残っていくために必要不可欠な要素だと言わざるを得ないのも、それはそれで当然のことながら、そうなのだとは思うけれども、この「意識」を、あまりにも、「勉強」に縛られ過ぎてしまうと、息抜き(ガス抜き)がしづらいこともあるし、何より、「あそび」が生まれてくる「時間的な余裕」が、本当に発生しづらくなってしまうということに一番の問題があると、僕は考えている。この「時間的な余裕」と言う名の「時間感覚」のストイックさというのは、言うなれば、諸刃の剣のようなもので、能力それ自体は向上するかもしれないが、それと同時に、自分自身を痛めつけてしまう結果につながりかねないというリスクを同時に負っているという見方を、どうしても、せざるを得ないような気がしてならないのは、僕の気のせいだろうか?

 もちろん、「楽しんで」あるいは、「楽しみながら」、勉強しているのであれば、これらのリスクとは、ある種、無縁なのかもしれないが、たとえ、その場合においても、「遊び」から学べること、「無駄な時間を過ごす」ということを通じて得られるもの...というのは、この「時間感覚」を緩める、あるいは、「時間的な余裕を生む」といった点においても、ものすごく有益(benefit)なことなんだよなあ...と、正直、大学生時代の自分に言ってあげたい...というのが、正直なところだろう。勉強も、遊びも、あくまでも「楽しみ」ながら、行うものであって、「苦しみ」ながら行うものではないよと言ってあげたい...というのが、正直なところだ。

 と、これまで、徒然なるままに(思うがままに)、書いてきたわけだけれども、こうしてブログを書いていく中でも、いわゆる、「自己理解」を深めていくのに、確実に役立っているなあ...という実感が少なからずあるわけだから、やっぱり、「書く」ということによって、深められる「理解」の度合いというのが、あるんだなあ...と、改めて実感したりしている。この「文章」の中に、「自分の意見」を織り交ぜながら、書いていくというところに、文章を書くということの醍醐味があるのかもしれないなあ...とも、感じたりしている。そして、このこと(自分の意見をふと言ってしまうかのような感覚)というのは、「会話」をしていく中でも、当然のことながら、引き出されていくもので、その最たる例が、心理カウンセリングを中心としたカウンセリングやコーチングなんだと思う。だからこそ、それだけのお金を払ってでも、受けよう!と言う人が出てくるのかもしれないな。