アメリカの授業は、よく言えばフランクだ。
先生は遅刻することもあるし、授業内容はその日の気分に大きく左右される。機嫌が良ければ映画を観て終わり。そうでなければ、驚くほどのスピードで内容が進む。

問題は、そのどちらもが同じ「授業」として扱われる点にある。
何より厄介なのは、授業の進め方は適当なのに、カリキュラムの消化だけは死守しようとする姿勢だ。

80ページのプレゼンテーションを、理解を深めることなく一気に流す。質問する余地もなく、背景説明もない。それでも「やったこと」にはなる。そして、それらがそのままテストに出る。

学ぶ側としては、かなり厳しい。内容を噛み砕く時間も、体系的に整理する機会もない。自由そうに見えて、実は自己責任が極端に重い教育なのだと感じる瞬間が多い。

日本の授業が必ずしも理想だとは思わない。ただ、少なくとも「今日は気分が乗らないから軽めで」という裁量が、評価と直結することは少ない。
ここでは、その曖昧さが日常であり、学生側が適応するしかない。

フランクさは魅力だ。だが、それは学びの質を保証する仕組みがあってこそ成立する。その土台が弱いままの自由は、時に学ぶ者を置き去りにする。私はそう感じている。