2月3日は坊守の祖母の命日でした。

立春を過ぎ、節分の日に往生された祖母のことを改めて振り返りました。






祖母は幼い私に和歌と書道、華道、茶道などの手ほどきをしながら、春夏秋冬に移り変わる庭の風景の中で、日本人の心意気を脈々と受け継がれてきた日本文化について様々な角度から教えてくれました。



祖母は『源氏物語』も原文で読んでおり、娘である叔母の愛読書だった『円地文子訳 源氏物語』と『与謝野晶子訳 源氏物語』をすすめてくれました。素晴らしい現代語訳でした。いま、原文と一緒に今度は瀬戸内寂聴訳で読んでおります。


そのほか、貴重な近代文学の書籍もいつも書棚にたくさんありました。私が文学に親しみ、日本文学研究に勤しむようになるのも、この環境のおかげだったのかもしれません。


今放映中の大河ドラマ「光る君へ」を見るたびに、紫を愛し『源氏物語』を愛読していた祖母のことを、ふと思い出すのです。


祖母は私にとって育ての母です。





私の小学校入学式🌸
家の門の前で祖母と一緒に撮影📷








  祖母 麻生秀子の一生



母に抱かれる秀子(私にとって曽祖母と祖母)




​姉の良子と一緒の秀子(左) 元気いっぱいのおてんばな女の子だったらしい。




​​秀子の祖父(江澤富吉・兄の江澤金五郎と共に銀座天賞堂を創業)、祖母(江澤さく)と共に自宅庭(銀座)にて撮影。


一番右に父親と一緒に写っているのが秀子。
秀子は二人から激動の幕末や明治、大正の日本の貴重な話をよく聞かされていたとのこと。







駒澤女学校時代の秀子



自室にて撮影。
いつも、お裁縫や文学に明け暮れた日々を、楽しそうに語ってくれました。





モダンガール時代の秀子



​結婚前の秀子。銀座を闊歩し、GHQの通訳をやっていた兄の助手をつとめていた。語学堪能であり文学を愛していた。

 








結婚して千葉へ


東京大空襲を生き延びて戦後に嫁ぐ。
詳細は東京大空襲編で述べましたのでご参照ください。
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祖父である麻生省三に嫁ぎ、家業であった恵比寿屋を切り盛りする女将(専務)として、6人の子供を育てあげ、孫の晶子(坊守)のことも育ててくれました🙏




恵比寿屋で愛用していたそろばん



私には躾や女性としての品格を厳しく身につけさせ、勉強も教えてくれました。


私は体が弱く20歳を迎えられないのではないと案じた祖母は、懸命にピアノ、書道、絵画などの習い事をさせてくれ、情緒を養わせてくれると共に、俳句、和歌は祖母の指南で一緒に詠みました。


今思うと親心だったんでしょうね。全ての習い事は活かせていませんが、色々と紆余曲折ありながらも、何とか道を逸れずに曲がらずに生きてこれたのは、厳しくも温かい祖母の教育のおかげだったのだと、いま改めて有り難く思う今日この頃です。



祖母は大変手先が器用な人で和裁洋裁に長けていました。

私の幼い頃の洋服は全て祖母の手作りでした。

仕事をリタイヤしてからは洋服のリフォームが趣味でした。

私は祖母の手から紡ぎだされる新しい命にいつも感動していました。

 


祖母は庭仕事も大好きでした。四季折々の庭はまるで祖母が大好きなモネの絵画のようでもあり、私のガーデニングの原点でもあります。


祖母が最後に庭に植えたのが大好きな藤の花でした。まだ開花はもう少し先ですね。






私の誕生花として庭に植えたのが白梅でした。東京よりも寒くて開花も遅いので、もうすぐ見頃ですね。


これから、庭が彩り華やかになりますが、今は静かに春を待つころでしょう。






散る桜 残る桜も 散る桜
(良寛和尚)





桜を愛した日本人はステキな言葉で桜について表現してきました。


良寛和尚がうたっているように、残る桜もいずれ散っていくさだめである。すなわち人も生まれて来たからには、散りゆく(死ぬ)さだめということである。


だからこそ、出会った桜(出会った縁)を大事にしていくことが大切なのですね。


死後に祖母の荷物を整理していた母が、祖母の女学校時代の卒業アルバムを見つけました。


その中で祖母がハワイに移住される友人との別れを悲しみ、その思い出を綴った貴重な文章も見つかりました。


祖母の死後、女学校の同窓会から通知が届き、続々と祖母の死を悼むお手紙を友人の方からいただきました。


常に家族の太陽であり、おおらかでリーダーシップがあった祖母。祖母の女学校時代の様子から友人達からも愛されていたことを知りました。








小さな森のような千葉の自宅の庭で



晩年の祖母は、女学校時代に学んだ英会話と漢詩に再び取り組み始め、その生涯を通じて

「一生学び続けることの大切さ」「自らが学んだものを社会還元していくことの意義」

を私に教えてくれました。



​天賞文庫 『創立100年記念誌』より(大多喜図書館天賞文庫蔵)

「新時代を切り拓く原動力」― 近代日本を創った勝海舟と江澤金五郎・富吉兄弟 ―
 (執筆:麻生秀子)



兄、江澤金五郎と共に銀座天賞堂を経営し、また、郷土大多喜町の事業である、恵比寿屋の当主であった江澤富吉は、私の祖父であります。

富吉の妻である江澤サクは、維新の三舟の一人、勝海舟の血縁にあたります。


そんな関係からか、私の幼少の頃、祖父母の口から良く近代日本を創った人々との交流の話や、郷土大多喜町での思い出の日々を懐かしそうに語られていたのを、つい昨日のように思い出されます。


《 昭和14年(1939)77歳の江澤富吉(江澤富吉翁述『商道先駆 ―天賞堂五十年の回顧』より) 》勝海舟は、荒波を乗り越え、太平洋を横断した自らの咸臨丸での体験。あるいは、幕臣でありながらも徳川三百年の幕引きをし、近代日本への橋渡しとなった大政奉還の大事業などを思い起こしたのでしょう。


後年、海舟は江澤富吉に会うと、当時を振り返り、「青春とは疾風怒濤の如し、何事にも失敗を恐れず、新しい世界に飛び込む勇気ではないか。新時代を切り拓く原動力とは、自らの使命に燃え、情熱をもって行動する事である」と話していました。


江澤金五郎、富吉兄弟はと言えば、明治時代、庶民のかなわぬ夢であった、時計、ダイヤモンド、自動車といった商品を我が国で初めて本格的に取り扱い、通信販売、広告宣伝、ショーウィンド、商品券を取り入れるなどして、近代商業のパイオニアと称された事は、申すまでもありません。


明治30年。我が国で最初の本格的近代図書館、天賞文庫を大多喜町に寄贈。この事は、常日頃、商人道を貫いた金五郎、富吉兄弟が到達した道であり、今で言う企業の社会貢献の先駆けと言えるでしょう。次世代をつくる若者に夢と希望を与え続け、文化創造の拠点として今日尚、さん然と輝く、天賞文庫。未来永劫その灯はともし続けるでしょう。






南無阿弥陀仏🙏






以下もご参照ください🙏