怒涛の2週間が終わり、やはり、燃えつき症候群。
すべての上映が終わってすぐのお礼生放送は、もちろん、地図さんになってからいつでもそうであるように、タイミングを空けない彼らの誠意ではあるけれど、クソロスになりそうなNAKAMAに向けて、テンションあげるための新しい生きがいを与えてくれる手当てでもあろう。
当初の目標を倍近く上回る動員数を喜び、お礼を直に言ってくれる、そして、それを受けられる嬉しさ❗『ありがとう』は楽しい2週間を送らせてもらったこちらが、彼らとこの映画を作ってくれた皆様に言うべき言葉だ。
私は仕事で忙しいこの時期、正直あんまり行けないかも、と思いながらムビチケ4枚セットを購入した。
それがどうだ。全て使い果たした上にプラスして7回観に行っていた。それでもまだまだ足りない。毎回行く度に新しい何かを発見したり感じたりしながら、飽きることなく目を見開いて観てしまう。
鋭いNAKAMAの皆様の指摘にいったい私は何を観てるんだ(>_<)と自分の視野の狭さにガッカリしながら、それでも、もしかしたら、ここはこういう意味があるのかな?と自分なりの解釈をしながら、楽しんだ2週間だった。
地図の3人の、あのこと以来の辛さや悔しさや悲しみ。それは、全てはわからないにしても、長年のファンであるNAKAMAには自分のことのように想像でき、心の中のやらかい部分から血を噴き出しながら耐えてきた日々、同じ苦しみを共有してきたからこそ、この映画から受け取るものはたくさんたくさんあった。
たくさんのNAKAMAがそうであるように、エピソード4で、引退とか留学とか画家に転身とかめちゃくちゃバッシングされた慎吾ちゃんが満面の笑顔で歌い、踊る、その姿に、堪えようとしてもいつも泣いてしまう。エピソード2の、元追っかけの女性警官とのやり取り、歌喰いにまつわるやり取り、慎吾ちゃん自身が、山内監督が自分自身を描いてくれたと言ったように、私達も、闇のなかをさ迷っていた慎吾ちゃんの気持ちに寄り添いながら見守る。
やはりこの人は役者として天才以外のなにものでもない、と確信できる、ツヨポンの演技力。オサムを演じるツヨポンは、例え笑顔の場面でも、ツヨポンではない。オサムである。いろんな表情、それだけで、セリフなしでも伝わる俳優は、そうそういないだろう。その中で、何かをなくしても、一生懸命誠意を尽くせば取り戻せるものもあるのだという光輝く未来への希望。オサムの泣き笑いのような最後の笑顔に、私達はいつもの永遠の5歳児と言われながら、本当は繊細で努力家なツヨポンを重ねる。
長くて美しくてイヤらしい指。吾郎はパブリックイメージ通りの吾郎を、ストーリーとしてはマッドドッグが主役で脇役といってもいい役柄を、主役を喰う存在感で演じている。まさに吾郎の真骨頂で、3人の中では吾郎一押しの私としても大満足、100点満点の演技だ。
その吾郎がエピソード4ではフジコとピアノを通じて真に通い合う愛を表現している。見守るマッドドッグの表情や言葉にも、真実の愛とはこういうものだと納得させる言葉と表情、この辺にも思わずジワッと来る。
名優と言われる共演者の中で、圧倒的な存在感を示したのが、歌喰いを演じた中島セナちゃんだ。まだ生まれてから10年ちょっとの彼女は、まるで歌喰いのように、本当にはこの世に存在しない何か別な存在なのではないか、とさえ思える。
エピソード2の冒頭、正面を向いた顔のアップ。何か言いかけたのか、歌を喰ったのか、一瞬口を空けて閉じる。これだけで、言葉にするのは難しいけど、たくさんのことを表現し、見るものに伝えてくれる。
エンドロール、地球最後の日の歌をバックに、現実なのか、すでに何かが終わった幻なのか、KUSO UNIVERSE の屋上で迫ってくる遊星に目を閉じる歌喰い、そして、次の瞬間、慎吾からくわえさせられた飴が落ちて……。
真実に目を凝らしても理解しがたいことはある。真実だと思ったことが実は真実でなかったり、案外、意識してない近くに真実が転がっていたりすることもある。
今、私達が見ているものが全てとは限らない。信じているものが全てとは限らない。そんな世界の中で、それでも、私達は一番大切だと思うものを選び、信じ、守る。
古い何かと新しく生み出した別のものとその他必要な色々なものを足して、私達は新しい詩を高らかに唄う。本当にこれで良いのか、間違ってないのか、不安に苛まれながらも、自分で選んでつかみとったものを信じて。
その先には必ず『希望』がある。懐かしいNAKAMAが待っている。そう信じて。
イェェェェェェイ!!!
