久しぶりに自分のブログを読み直していました。

いろいろあったなあ。でもあっという間だったなと振り返りました。

 

 

先週四十九日の法要も終わり、無事納骨を終えることが出来ました。

 

三月の最後の日にこちらへ戻ったとき、たぶん次はお葬式だろうと思い、

更にお葬式へも行くことは出来ないだろうと思っていました。

 

しかし、職場が更にお休みが伸びると決まった日に思い切って再び実家へ帰ることにしました。

 

2週間は別荘へこもって過ごし、コロナに罹患していないことが証明できたら、

もしかしたら運よく生きている父と再会できるかもしれない。

仮にもうダメだとしても、その後のお葬式などのときにはいろいろと手伝いが出来るだろうという心積もりでした。

 

私が帰省を決めた日には、父はもう食事はとれなくなっており、

点滴からの栄養のみでした。

 

私は別荘で最初は掃除をしたりしていましたが、

そのうち父の家庭菜園を復活させることを思いついて、

近所のお店で様々な野菜の種や苗を買い、

ネットでやり方を勉強しながら、畑を耕すところからスタートしてみました。

 

毎日早朝から草取りを行い、庭の木々の伐採をし、家の中の掃除をし、畑のお世話をし、

日中、日差しが強い時間は部屋にこもって持ち帰っていた仕事をし、

夕方から再び庭の手入れを行ったあと温泉に入り1日の疲れを癒すと、

夜は地元のスーパーで買ったお刺身(地元の海で獲れた魚が豊富に売られている)を食べながら、

お酒を飲んで1日を終える。

 

どんどん弱っていく父や、介護疲れの母や兄とは裏腹に、

私一人元気で健康になっていくような日々でした。正直、とても充実していました。

 

でもホスピスには入れないにしても、本当は実家の方の片付けなどもやりたかったし、

せめて母の病院への送り迎えぐらいしたかった。

 

実家の方で気になっていたのは、

父が亡くなったあとに祭壇を作ったりするのに場所を作らないといけないのにどうするんだろうというのがありました。

 

リビングの方には父が使った介護用ベッドやポータブルトイレなどが置いてあるままだし、

仏間には、リビングから運びこんだ机などが置いてあるままです。

 

このことは帰省を決める前から私が心配しているのに、

なぜかみんな「なんでそんなこと気にするの? そんなのどうにもでもなるから」という反応でした。

(しかし、やはり後からたいへんなことに!)

 

しかし日々は淡々と過ぎていき、

益々父がもう危ないというときを迎えます。

私はあと2日で2週間を経過するときでした。

ホスピスでも「娘さんが来るのは2日後ですね」という話しが整っていました。

 

私がホスピスに泊まった最後の夜は、

また父はナースコール用のマットを踏まずに用を足そうとしたり、

手の貸し方に文句を言ったりしましたが、

その日の夜の担当の看護師さんがすごく手際が良い方で、

その方と二人三脚でかなりうまくできました。

 

その方が朝の担当の方と代わるときに、

「今日で帰られるんですよね。いつもお手伝いいただいてありがとうございました」

と話してきました。

介護のポイントがよくわかっていて感心した(要約)というようなことも言われました。

 

確かに自分でも各段に父の身の回りの世話がうまくなったなと思っていたので、

素直に嬉しかったです。

父とは子供たちの中でも性格や体質など一番似ていると言われていたので、

なんとなくお世話するにも波長があったのかもしれません。

 

朝は看護師長さんがやってきました。

その方は父にあれこれ話しかけ、父も素直に応じていました。

話し終わったあと私に向かって「良かった。ほっとした。穏やかな顔になって」と嬉しそうに言いました。

気のせいかもしれないのですけど、少し涙ぐんでいるように見えました。

 

他愛もない話しを父としていたけれど、

しっかりその間に父の様子を観察していたようです。

 

父はホスピスに入院したすぐに一度かなり身体の状態が悪くなったときがあったのですが、

その頃は言動も態度も世の中全てを恨んでいるような状態で、

主治医も「もうこのまま、この人はこんな感じで亡くなるだろう」と思っていたようなのですが、

その後思いもかけず体調が戻り、

更には精神的にも落ち着き、

攻撃ばかりしていた看護師に対して「おかげさまです。ありがとうございます」と感謝を口にし、

それより何より、とにかく表情が憑き物が落ちたみたいに優しくなっていて(いつもいつもではありませんが 苦笑)、

看護師として、

亡くなっていく人が険しいままに亡くなるよりは、穏やかに亡くなっていくことの方が嬉しいんだろうなと、

その看護師長さんの様子を見ていて思いました。

 

とはいえ、父はまだ母に対しては強い口調になるので、

その穏やかな朝は最後のチャンスと思い、

父に「もうこの先は、怒っているのは時間がもったいない。お母さんに優しくしてほしい。その方がいろいろうまくいくから」と話しました。

 

「次はゴールデンウィークに来るから」と言うと、

「あと一か月先かあ。そのときはまだ俺は生きてるよな?」と聞いてきました。

最初に余命としては宣告されていませんが、「3か月から6か月(で動かなくなる)」と聞かされているので、

自分なり夏ぐらいという心積もりがあったのかもしれません。

「大丈夫。まだ生きてるよ」と私は言いました。

 

でも生きていたとしてもその頃はなんだかもうほとんど意識がないぐらいなのではないかという勘みたいなものがあって、

母にはそのように言っていたのですが、

本当にその通りになってきました。

 

 

 

 

 

父はホスピスに入院してから、私が帰省する以前には二回ほど外泊しています。

 

そのときも手を貸すと嫌がったりしていましたが、

まだ自分のベッドに寝て、トイレには一人でヨロヨロしながら行っていました。

 

しかし二回目の外泊のときは途中で転んで額を大きく切ったそうです。

 

一回目のときには兄も一緒に実家に泊まってくれたのですが、

二度目は泊まってくれませんでした。

母一人で血だらけの父を介抱したのかと思うと本当にかわいそうになります。

 

私が居るときの三度目の外泊のときは、もう到底トイレに行けるはずはないと思ったので、

帰宅前に事前にリビングにリクライニングできる医療ベッドと、

ポータブルのトイレを準備しました。

トイレに起きるたびに手を貸すと、まだそのときは、

「うるさい。手を出すな。どうせおまえたちはいなくなるんだ。これからは一人でやらないといけんのだ!」とわめきながら、

ヨロヨロやるのです。

そのときの顔の険しいこと。

どうしてそんな険しい顔をして、周りに近づくなとばかり言うのだろうというのが最初から不思議でした。

 

でもふと思ったのですが、

野生の獣は怪我をすると周りを威嚇しますよね。

自分が弱いときほど、誰も近づけようとしなくなります。

威嚇するのは怖がらせるためじゃなくて、自分が怖くてたまらないからなのかもしれない。

 

つまり父は元々そういう性格ではあるものの、脳の腫瘍がいろいろ侵されていくうちに、

脳の奥の方の野生部分がさらに敏感になってきたのではないだろうか?と思い至りました。

 

そんな話しを兄に話したりしましたが、

だからと言って「じゃあ許すか」という感じにはなりませんでしたが(笑)。

 

しかしその帰宅が終わり病院に戻った父の穏やかなこと。

丁度薬を変えて三日経っています。

 

しばらくビニールへの隠し捨てはなくなり、看護師さんへはお礼の言葉を言い、

私がトイレのときに手を貸すのを嫌がらなくなりました。

 

というか素直に手を出させてくれるので、

看護師さんが来る前にトイレに座らせることが出来ました。

なので看護師さんには外で待っていてもらうようにしたのです。

そのことで父はより安心したのかもしれません。

 

その頃、妹が帰省してきました。

それで一晩代わってもらったのですが、またそのあたりから父の身体はまたより悪くなっていったようで、

それにつられて態度も悪くなっていました。

 

その外泊のときは父の誕生日でしたので、

私たちはもう最後の誕生日ということでいろいろ準備をしたのですが、

父の顔は険しいだけでした。

 

でもそこはこちらの方が大人数なので、全然気にせず盛り上がり、

写真をバンバンとり、ケーキにロウソクを付け、プレゼントを披露し・・・と、

父の顔が険しいことも全然気づかないテイで進めました。

 

なんだか大人になるというのはいいものだと思いました。

 

二度目の帰省から戻った日は、

妹がもう帰らなくてはならなかったので、

妹と私と二人で朝から妹が帰るまで三人で過ごしました。

 

前は大好きだった珈琲を全然飲まなくなっていましたが、

そのときは三人分珈琲を作ったら、父も珍しく飲んだのです。

 

それで三人でいろんな話しをしました。

父は「帰宅するとコロナの危険があるから、本当は医者もさせたくないだろうによくさせてくれた」などと、

ほんの少し前まで「殺される」などと言っていた相手のこととは思えないようなことも言っていました。

 

認知症も進み、わけのわからないことを言うときの方が多いですが、

こんな風にときどきとてもまともになるのです。

 

妹が帰って、その晩も私は泊まりましたが、

また以前のように少し嫌な態度をとるようになっていました。

 

なんだかアルジャーノンに花束をを思い出しました。

知的障害のある青年が手術を受けて天才になるのですが、そのあと再び知能が戻っていくという話しです。

 

 

 

 

昨日、主治医から母と兄に話しがあり、

一週間ぐらいで急変する可能性があるので心積もりをしてくださいと言われました。

 

母からも一昨日ぐらいから急に様子がかわった気がするとラインが来ていたので、

なんとなくそういう話しは予測がついていました。

 

しかし私や妹はもう帰省しても病院には入ることが出来なくなっています。

コロナのせいで、今、仕事はゆるくなってしまったので今なら帰省できるのに、

そのコロナのせいで帰省できないという状態です。

 

話しを戻すと、

帰省して付き添いで丸一日をホスピスで過ごして、

父の妄想や看護師や家族への暴言は病気や病気による認知症などの影響とは他に

薬のせいではと思い、主治医とお話しをさせてもらいました。

 

主治医は入院した当時の父は「もう放っておいてほしい。死にたい」と繰り返すばかりで、

自暴自棄に見えた。

なので抗うつ剤を処方したのだと話します。

 

それで私は父は口ではそういうことを言うけれど、

前向きな気持ちもないわけではないと話しました。

丁度昨日も家庭菜園の話しで6月頃の計画を聞かされました。

「体調が悪ければ死にたくなるし、良くなれば気持ちも上がっているようでシーソーのようにそれが繰り返されている状態に感じます」

という話しをしました。

 

それでも父が以前に比べると看護師にそこまでひどい態度をとらないのは抗うつ剤のおかげだと思うと言うので、

「父の中では、医者や看護師に良い態度をとって外泊を許可してもらい、

そのままこの病院から逃げ出すという計画があります。そのための演技のようなものでもあると思います」

と答えました。

 

確かに入院当初よりは幾分まともだったのかもしれないけど、

母に対する態度やトイレ介助の看護師さんへの態度は変わらずひどかったし、

周りが全員敵だと思いながら一日を暮らしていくのは、父自身が一番苦しいだろうと思うのです。

なのでこの症状をなんとかしてほしいという思いが強くありました。

 

主治医も「確かに今の雰囲気では抗うつ剤は必要ないかもしれない」となり、

その日の夕方から抗うつ剤の処方は辞めて向精神薬が処方されました。

 

父の付き添いでたぶん母が一番疲弊していたのが夜のトイレ介助です。

その前の晩まで夜は短いときで45分おき、長くても2時間ごとにトイレで目を覚ましていたのですが、

そのお薬を飲んだ日に突然8時間ぶっ通しで眠ってくれました。

 

あまりに驚いて朝来た看護師さんに「睡眠薬を増やしたんですか?」と聞いたら、

その向精神薬が眠気の作用が強いものだという話しでした。

 

最初は「これは良いことなのか、悪いことなのか」と不安になったのですが、

目を覚ました父は「久しぶりによく寝た。トイレに起きなかったよな?」と機嫌よく話し始めました。

 

その日は外泊の予定でした。

私は父は一時間でも早く帰宅したいだろうと思ったので、

朝の点滴の時間を早めてもらい、点滴終了と同時に病院を出られるように、

事前に薬や酸素吸入器を手配してもらい、全て車に積み込んで準備万端にし、

一応念のため「着替える?」と聞いてみました。

容態が悪くなってからは父は着替えるのをすごく嫌がっていて、

それ以前の帰宅のときはパジャマ姿のままで帰ったそうです。

ところが今回は普通にポロシャツやスラックスなどへの着替えに応じました。

 

とはいえこの帰宅時はまだまだ態度は最悪で、私は何度も喧嘩をするし、

母も最初は着替えたことを喜んだり、父の好きなものを作ったりするのに頑張っていましたが、

母への度重なる暴言に家の中は険悪な雰囲気になっていました。

 

それでも久し振りの自宅での食事はやはりおいしかったのか食欲は旺盛で、

なんとかよろよろしながらもダイニングのテーブルについて食事をとることも出来て、

別荘の方の温泉にも入ることが出来、悪くない帰宅となった思います。

 

最後のお昼の食事も終わり、

私は再び父を車に乗せて病院へ向かいました。

 

最初は大した話しをしていませんでしたが、父も穏やかっだったのでつい、

「自分でなんでもしようとしないで、もう少し看護師さんに頼った方がいいよ」と話しました。

普通はここで険悪になるのですが、そのときは素直に

「そうだなあ。もう自分では何にも出来なくなってしまったしなあ。頼るしかないよ」と言いました。

そこから母の話しになり、「お母さんを頼むな。いろいろと身体も悪くなってるから」と言われ、

「だったら優しくしなよ」と心の中で思いましたが、そこはとりあえず「そうだね」と返しておきました。

 

さてその日の病院に戻ってからの夕飯。

なんと父は完食こそはしなかったものの、ビニールへの隠し捨てを行わなかったのです。

 

更にはなんだかとっても落ち着いていて、

看護師さんへの態度もものすごくよく、トイレ介助の度に「悪いね。ごめんなさい。」と繰り返し謝りまます。

 

夜の薬を飲んだあとは、いつもは口をきかず寝ているのですが、

その日は二時間ぐらい横になったままいろんな話しをしました。

 

自分の仕事のこととかこれまでやってきたこととかです。

子供の頃に父親を亡くしているのですごく苦労しており、結婚した当初も貯金はほとんどない状態でした。

それがサラリーマン時代を経て、会社をいくつか経営するまでに至り、

家や別荘も持てて、献身的な兄がいて、

娘たちは遠く離れてしまったけど、こうして短時間でも戻ってきて喧嘩しながらも手助けしてくれて、

「お父さんの人生は成功だったんじゃない?」というようなことも言いました。

 

そこから三日間ぐらいは母も「お父さん、どうしたんね?」と言うぐらい穏やかで、

兄も妹も「薬をかえてよかった」と喜んでくれました。

あの時のあれは薬のせいだったのかなんなのか今となってはわかりませんけど、

そのあとはまた微妙に悪くなっていくので、体調に関係していたのかなとも思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

娘の大学も五月の第2週からのスタートとなりました。

当分オンライン授業です。

でも今、新学年での履修にアタフタ中です。

今も目の前で友達とラインで話しながらあれこれやっています。

 

さすがに学習塾の方のバイトは今日から休止になりました。

(昨日まではあった)

でも保育園は引き続きです。週に1回か2回でしかも早朝の1時間半のみなので負担はまったくないですが、

感染はあり得るのでバイトから戻ってきたらすぐにシャワーを浴びてもらうようにしています。

 

私の職場の社員のご主人が会社でやらされたという英語の通信教育があります。

TOEICのための勉強ですが、3か月コースと6か月コースがあり、かなり過酷だと言われました。

料金も通信にしては高く、3か月コースでも7万弱。6か月コースだと10万弱です。

 

でもご主人はそれでTOEICの成績が200点上がったという話しでしたので、

以前に一応念のため申し込み先を教えてもらっていました。

ただ料金が高いのでその時は断念。

 

しかし春休みが伸びたときに、思い切って実施することにしたのです。

 

娘が言うには、「これを働きながらやるなんて不可能。その人(社員のご主人)どうやってやってたの?(怒)」とのこと。

自分も今は春休みだからできるけど、大学が始まったら無理だからと文句ゴーゴー言ってきました。

 

それで結局大学の授業開始も伸びたのであのときに申し込んでおいてよかったと心底思いました。

ちょっとは有意義に過ごせているのではないかと期待しています。