きょうは昨日、仕事中に居眠りした罰があたったのだろう。朝から夜まで、分刻みの殺人的忙しさ……。いろいろあったが、何があったかは語るまい。
夕方、ほっと一息ついたころ、mixiのマイミクさんで、恋に悩む乙女から、何回もメールが来る。
今、困難な愛の中を生きていて、なんとか今の彼氏と結婚にたどり着きたい模様……。
おれの差しがねで手練手管(てれんてくだ)の限りを尽くし始めているが、おれに相談するのが遅すぎた。
今、難局の中、孤独に一人、佇んでいる。
実際にはメールのやりとりを重ねたのだが、彼女とのやりとりを会話文にしてみよう。
「彼氏のこと、本当に愛しているの?」
とおれ。すると彼女、
「心から愛しています」
「君、心から本当に愛するという意味分かっているの? 自分を空虚にして、自分を差し置いて、彼氏のために自分の全てを犠牲にできるかい?」
「もちろん、自分より彼のことを優先できます」
と彼女は胸を張って答える。
実際、もう自分の幸福なんてどうでもいい、恋する相手の幸せだけが重要……真実そんな気持ちになった時、俺の体験上、想いは必ずや相手に通じるものである。そこには自我や我欲と呼ばれる感情の一切は排除され、想いも行為も全て相手の為だけのものとなる。
その時、恋の奇跡は起こるのだ。絶対に不可能な筈の恋は成就する。不思議なことに、奇妙なシンクロ二シティー(偶然の一致)までが頻繁する。これは体験上の事実……。
そうして、相手の為を想う、祈りにも似た気持ちは、必ず通じるものである。
俺は、彼女の「愛」に疑問を覚えて、こんな質問をした。
「悪辣な独裁者がいるとする。今、愛する彼氏が、絞首刑になろうとしている。
彼は君の見ている前で今にも死んでいこうとしている。
独裁者から、君に対して、ある条件が出される。
死んで行こうとしている彼氏の、ウンコ、熱々でホッカホッカのウンコが、ドンブリに山盛りでもられている。
独裁者は、
『もし、お前がこの山盛りのウンコを残さず食べたなら、この男の死刑を中止にしてやろう』
と、君にいう。君は独裁者に試される。
さあ、君は、新鮮で湯気のたっている、てんこ盛りのウンコを残さず食べることができるかい?」
「…………」
彼女は黙りこんで、しばらく考え込む。そうして、
「ウンコだけは、どうしても、絶対に食べられません」
と、答えた。
俺は、
「君の愛は真実ではない。だから想いが通じないのだ。真実の愛あるところ、風も、時間も、あらゆる事象が君の為に不思議と動くものなんだよ。
死にいく彼氏のウンコが食べられないとするならば、この恋は諦めなさい。逆に、ウンコが食べられる心境になった時、この恋は必ずや成就するだろう」
こういう時、なんらかの信仰を持っている方は強い。祈る対象が、阿弥陀如来であれ、キリストであれ、エホバであれ、妙法であれ、とりあえず、彼氏の幸福を腹の底から祈ることができる。
祈り。
祈りは自己を強くし、また、空しくする行為。信仰の対象がなんであれ、祈りを継続しているうちに、どうしても死に行く彼氏のウンコを食べれない乙女は、山盛り、てんこ盛りのジューシーなウンチを腹一杯、食べれる乙女へと変容していく……。
ところが、この彼女には信仰がない。祈りがない。願望を実現させる古代からの「心術」も知らない。その結果、いくら想いつめても、この愛は、我執(がしゅう)の延長線上の独占欲に他ならない。
独占欲では、森羅万象が見方にはなってくれない。
愛は無情であり、無常……。
あなたは、愛する人のウンコを食べられますか?
食べれないならば、それは真実の愛ではな~いッ!
ちなみに俺は絞首刑で死に行く息子のウンチならば喜んでたべるでしょう。
え? 妻のウンチですか? そったらもん、食える訳がない。でも昔の妖精のように美しく愛らしかったころの独身時代の妻のウンチなら食べたことでしょう。今なら、ドンブリを投げ捨てて、
「どうぞ、どうぞ、殺して下さい」
と、独裁者に逆に頼むだろう。
あなたは愛する彼氏、彼女、奥さん亭主の、取りたて、てんこ盛りウンチ、残さず食べられますか?
もしも、あなたが食べられる、と答えて、今にも臭いカタマリを口に運ぼうとした時、非道な独裁者は、突然、仏様の姿に変身する。
ウンチはウンチでなくなり、二人が一生、楽をして暮らせるだけの金塊に変わるのです。
さあ、どうですか?