ヨハネの福音書 10章1~6節
「主イエス・キリストの御声を聴いて生きる」
「人間とは何か?」 私たちを造り、生かしている創造主なる神の前にどのような存在かということを離れては、正しい答えは出ません。 「聖書」は、私たち人間を、羊のようだと言っています(→イザヤ53:6、エゼキエル34:31) さて、「羊」という動物は
〇自分で水や食物を見つけられない(近眼?)。
〇満腹になって、安全でないと眠れない。
〇単独では生きていけない。
〇方向音痴で迷いやすく、帰巣本能がない。
〇自己防衛力がない。
など、非常に弱い動物ですから、「羊飼い」が導かなければ生きていくことができないのです。 どんなに強いと見える人も、神の目には、人は羊のように弱い存在、導く存在がいないと生きていけないのです。 羊のような私たち人間を導いてくれる「羊飼い」が良き者でなければ、命とりなのです。
“迷える羊”である人間は、人を正しく導くことはできません。 導くことができるのは、人を造られた方、そのすべてを知っている方=神でなければならないのです(→エゼキエル34:11~16)。
主イエスが、羊と羊飼いの比喩(6)を語ったのは、9章から続いて、主イエスよって生まれつき目が見えなかった人の目が開かれ、さらに真実の神である主イエスを見るようになった人を、ユダヤ教から追放したパリサイ人たちを前にしてでした(10:19~21)。 本来なら、パリサイ人たちは人々を、神のみことばによって正しく主のもとに導くべきでしたが、良き羊飼いである主イエスを悪人と決めつけ、目が開かれた人を追放するパリサイ人は、羊を奪うだけの、盗人、強盗なのだと、この比喩を語られたのです。 当時のパリサイ人の教え(=人から出た教え)は、人をいやすのでなく、苦しめ、散らしてしまうものでした(12)。
この世には、あらゆる偽りの声が満ちています。 神の愛から遠ざける声(情報)が人をだましています。 その声が私たちを殺し、滅ぼすものであることを知り、私たちを正しく導く「私の羊飼い」(詩篇23:1)である主イエスの御声を聞き分けなければならないのです。 私たちの真の良き羊飼いである主イエス・キリストは、私たち一人ひとりを知って、その名を呼んで連れ出し、先頭に立って導いてくださるのです。
真の羊飼いである主イエスは、「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。 わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの」(イザヤ43:1b)と言われます。私たちはその御声を聴き分け、迷いやすいこの世の荒野で、憩いを、安らぎを見出していけるのです。 そのために神のことば、「聖書」から、良き羊飼いの御声を求めていくのです。 そうすれば、神の声と悪の声を聞き分けることができるのです。
