昨年の九月より、夫と私の個人的な二人の

足跡を、思い出せるうちに記しておきたい

という思いから、この「モーリーと私」を書き

始めました。

当初、私は70才になり、そろそろ心身の健

康にも気配りをしないといけないと感じるよ

うになっていました。

幸い、身体の健康に関してはお医者様より

お墨付きを頂戴しました。

しかし、記憶力の劣化は急ピッチで進行中

です。その上、子どもの頃から作文が大の

苦手でした。

そんな状況で、正直、私はなりふり構わず

に書きなぐってきたようなものでした。

ところが、私のことをどこの誰とも知らない

のに、図らずも皆さまのお目に留まりるこ

ととなり、また、海外からも読者登録してく

ださった方もいらっしゃいました。

最後の日には、「おわり」と記しましたのに、

その後も登録してくださったお方がいらっ

しゃいました。

七十才のお祝いにしては、過分なご褒美

を頂戴してしまい、とても嬉しく思っており

ます。

つくづく、自分は果報者だと思いました。

それで、私はお一人お一人に、直接お会い

して、お礼を申し上げたいところですが、そ

れも適いませんので、今日ここで、みな様に

感謝の気持ちをお伝えいたします。

 

このブログにご訪問いただきましたみな様

から、私は大きな勇気と励まし、そして愛を

いただきました。

「みな様、本当にありがとうございました」

僭越ながら最後に、私からみな様のご健康

とお幸せをお祈りいたします。

みな様、ありがとうございました。

 

▲61.モーリーの最期の言葉

テーマ:

昨年の二月のある晩、家に帰ってこないモ

ーリーは事務所の中で倒れていた。

病院の医師の説明では、脳内出血というこ

とで、直ぐに手術が行われた。

しかし、右半身不随と言語障害という後遺症

によって、身体も言葉も不自由になってしま

った。

そして、ICUに入ったままたった16日で逝っ

てしまった。

医師は一度も意識を回復することは無かっ

たと話していたが、一週間くらいは彼の左手

を握ると、温かい手で握り返してくれた。

顔も自分では自由にはならなかったが、苦

痛な様子は見られなかったことが、せめて

もの救いだった。

 

 

話しは変わるが、我が家の仕事は家族経

営だったので、サラリーマンの夫婦よりは

二人が一緒にいることは多かった。

勿論、お互いに機嫌が悪いときは何度も

あったが、喧嘩になることはなかった。

それは一つには、私が彼に何か文句を言

っても、相手になってくれなかったからだ。

反応してくれないのだ。

二つめには、お互いにいつも何かしら夢中

になっていることがあったので、いつの間

にか上手く行っていたのだと思う。

 

 

モーリーの前半の人生は苦労が多く、恵ま

れていなかったと思うが、グチを聞いたこと

は一度もなかった。

困難なことを前にすると、俄然、闘志が湧

いてくるタイプだったようだ。

 

 

倒れる数日前のある日、二人で炬燵に入っ

て寝転がっていたとき、彼が天井を見上げ

てポツリと、「幸せだな~」と呟いた。

私も、「幸せだね~」と呟いた。

おわり。

 

 

 

▲60.心理療法との出会い

テーマ:

私はまだパソコンを持っていなかったので、

情報はテレビだったが、夜のビジネスサテ

ライトなどを見るようになり、「コミュニケー

ション」という言葉に興味を持つようになった。

 

まるで小さな井の中にいたカエルが、初め

て外に飛び出したように、興味の趣くままに

幾つかのセミナーに参加してみた。

その後、ネットで「問題解決セラピスト養成

講座」に出会った。

講師は心理療法家の矢野惣一先生。

飯田橋で開かれていたその講座に、私は

訳も分からずに参加した。

 

 

しかし、気の小さい私は主婦が外に勉強

に行くことを、うちの者が許してくれないの

ではないかと心配していた。

決心して始めて外に出るとき、食事の支度

などは、出来ることはなるべく前夜に準備

して工夫をした。

それでも家事はその他にもあるので、食

卓に並ぶおかずの種類は申し訳ないけど

少なくなってしまった。

講座が開かれる土曜日は、「みんなゴメン

ね。申し訳ないない」、と思いつつ駅に向

かった。

 

 

実は、その講座の内容に関して私は全く馴

染みがない世界だったこともあり、一度の受

講では理解が出来ず、結局その講座には二

回通った。

心理の勉強では後に、衛藤信之先生のカウ

ンセリングスクールにも通った。

 

 

 

講座を卒業し、家では身の周りの人に協力し

てもらってホームページを作り始めた。

以前の自分とは違って、何の迷いもなく、前

に進んでいくことしか考えていなかった。

そして、マンションの一室を借りて「ウーマン

サポートIBI」を開業した。

しかし、最初はお客様はほとんど来なかっ

た。

それから一年後、上中里に移転してからは

お客様が徐々に来てくださるようになった。

ホームページには、「通院されている方はお

受けできません」、と明記していたのだが、

お客様はほとんどの方が通院されている方

だった。

 

 

初めてお会いした時には涙を流して、長年

抱えている問題や悩みをお話される方が多か

った。

それが、わずか2、3カ月間の心理セラピーで

問題や悩みを解決されて笑顔を見せてくれる。

心理療法で人生を変えることができることに

本当に驚いた。

そして訪問してくださったみなさんが、幸せな

人生へと切り変わる瞬間に立ち会うことがで

きて、自分こそ幸せ者だと思った。

つづく。

▲59.人生の後半

テーマ:

終戦直後に生まれた世代は、今どきのよう

に結婚をしないという選択肢などなかった。

幸か不幸か25歳までに結婚しないと売れ

残り、などというという言葉もあった。

因みに、自分はギリギリセーフ。

そして女性は女性らしく、結婚したら専業主

婦として夫を支えて、子どもを育て家庭を守

ることを期待されていた。

女性の方も暗黙のルールとして受け入れて

いた。そんな世相だったのだ。

 

 

私は50歳になった時、自分に遺された時

間はどれだけあるのだろうか、ということを

考えるようになった。

もっとも自分の命の期限は誰にも判るはず

はないが、これだけは誰にでも平等にやっ

てくる。

 

 

その頃、義父母は70代になったが、まだ

まだ健康に過ごしていた。

嫁姑の関係では、私は闘わず成り行き任

せできてしまったといえるが、その頃は義

母も角が取れてきて、言葉も性格もだんだ

ん丸くなって私ともそりが合うようになって

きた。

丁度、子どもたちも成人式を迎えて、親とし

ては肩の荷を一つ下して解放された感があ

ったのだろう。

 

 

それから、私は三カ月ばかり地元の女性セ

ンターに通った。

ハッキリとした記憶ではないが、その講座は

「自分らしい生き方」がテーマだったと思う。

そこで初めて「男女共同参画社会」、「ジェン

ダー」という言葉に出会ったのだ。

それは、残されているであろう時間に、自分

の好きなことをやってみたいと思った「私の

初めの一歩」だった。

つづく。

 

 

 

 

 

 

▲58.最近の私

テーマ:

モーリーが旅立ち、一人になってから少し

困っことがあった。

それは家事をしていている時に、気がつ

くと作業の手が止まっていることだった。

以前のように炊事や掃除などの家事を、

無意識にさっさと出来なくなってしまったの

だ。

いやいや、これは歳のせいで老化現象に

違いないと思い、その度にしっかりしろと

自分に言い聞かせてきた。

そんな時、フクが散歩の催促をしてくる。

それで、私はハッと我に返るという具合な

のだ。

 

 

当初は、悲しみが癒える日がくることは想

像もできずに、毎日、うつうつと過ごしていた。

が、季節は一回りして、早くも家の周りには

桜が咲き始めて爛漫の春を謳っている。

いつの間にか無意識に手が止まることも、

なくなってきた。

 

 

外に出ると、知り合いが「元気にしている?」、

「しっかりご飯食べてね」などと、一声かけて

くれる。

また、時々電話をかけてくれた友人たちの

思いやりのある言葉。

そして拙いこのブログを読んでくれている皆

さん。いつも、いつも、ありがとうございます。

私は身の周りのすべてが灰色に染まったか

のような、深い孤独の世界をみたからこそ、

人の温かさを深く知ることができました。

つづく。