筆者と蚕とのつながりは父の事を書かなければいけない。

父は沖縄が蚕業が一番盛んだった大正時代(11年)にこの粟国島で生まれました。

この時代,沖縄県は質の良い蚕種(卵)を作るため大正15年(1917年)に小禄安次嶺の農事試験場に

蚕業部が設置され蚕業技術者の養成を行いました。また昭和6年1931年当時の農林省管轄の

農林省蚕業試験場沖縄飼育所が設置され、養蚕業の一大地を形成する基盤整備が整えられましたた。



蚕糸試験場

              

現在那覇市与儀公園周辺に有った蚕業試験場沖縄飼育所(昭和6年)

父は昭和14年に3月に沖縄県蚕業技術員養成所を終了しその年4月に県立蚕糸試験場に雇用され

昭和15年に山下蚕種製造所入社し同18年に退社してその後兵役に服し敗戦後復員して後も蚕業一筋の

人生を送りました。


繭集荷トラック

      昭和38年頃沖縄の伊平屋、伊是名島から集荷された繭
 

父は復員後昭和22年当時の農連(琉球農業組合)に蚕業技手として入りましたがその後農連が製糸業から

撤退した為,製糸器械を払い下げてもらい、女工さんが10人位の製糸工場を那覇の古波蔵に作りました。

上写真がその原料となる繭です。この繭を保管する倉庫はネズミの侵入を防ぐため壁はブリキ板で覆い乾燥した部屋でした。

筆者兄妹はそのまゆぶくろで遊んでました.又7,8歳の頃からその繭を煮るボイラーのまきくべや、木桶に煮繭した繭を入れ糸を繰る女工さんに持っていく手伝いをさせられていた事をかすかに覚えております。

 その頃撚糸機もなかったので繭は一度に60粒繰っておりました。これでだいたい180デニールの繊度になります。

昭和40年くらいだと思いますが養蚕の産地も他の作物に変わり繭がなくなり戦後沖縄に一つしかなかった製糸工場も閉じました。

この記事を書くにあたって戦前父親が勤めていた山下蚕種をネットで検索すると読谷村史の戦争体験集のなかで当時読谷村で養蚕していた女性の談話に父親が読谷村に養蚕指導員として派遣されてた記事と偶然にもであいました。胸が熱くなりました。

父、21歳の時のことです。