節分豆に見る歴史 | ふくらく通信「ゆるゆる歩記」

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東北人です。日々思う事や、ゆるゆる歩いて見つけた町の魅力など、なんだりかんだり語っています。

粉雪が舞い、白く染まる仙台だが、暦は明日、冬の終わりと春の始まりの狭間になる「節分」を告げる。
 
かつて、我が家では、「善光寺のご祈祷」という節分の豆を手に入れたことがある。
 
近くの店で見つけて、「凄いな」と思ったのだった。
なにしろ、善光寺のご本尊は、百済から寄贈された仏像(阿弥陀如来像)だと伝わっているのだから。
 
 
その仏像が渡来したのは、欽明天皇の時だというので、隣の朝鮮もまだ三韓統一していない昔。
わが国は倭国と呼ばれ、聖徳太子となる厩戸皇子が少年の頃という昔である。
 
後に、この仏像が物部氏に捨てられたのを本田義光が拾い上げ、阿弥陀如来のお告げに従って堂を建てて安置した所が、善光寺の始まりだという。
(参考資料:善光寺縁起)
 
こういう伝説があることに感心する。
それだけ、だいぶん古くからあり、大事にされてきたのだろう。
 
 
そういえば、東日本大震災の被災地に祈りを込め、陸前高田の「高田松原」の松から地蔵菩薩が彫られたが、その入魂供養は善光寺さんで行ったのだった。
 
今も、「広く衆生を救う」という阿弥陀如来の本願に、従う人々の姿があるということだ。
 

さて、年中行事を振り返ると、祝いと厄払いは一対であるように思う。
節分の豆まきも、春を迎える祝いと共に、一年の災いを祓う意味が込められているからだ。
 
 
もともとは、中国から伝来した、大晦日に疫病の鬼を追い払う「追儺」の儀式が、節分に行われるようになったといわれている。

鬼を祓うのに豆をまくのは、平安時代からの風習のようだ。
(参考資料:斎宮歴史体験館「追儺のまつり」)
 

平安時代の話には、怨霊や鬼が良く出てくるし、呪術が身近だったのだろう。

人々の暮らしに、祈りの力が強く影響する世の中で、病や天変地異などの、様々な災いごとを鎮めるのに行う儀式は、とても大事だったに違いない。
 
昔の人に習って、日々の暮らしに行事を取り入れるのも、活気が出て良いものだ。
 
 
豆まきも、近頃は小分けになった豆が売られているし、大豆ではなく落花生を撒くという家も多いだろう。
我が家も、大豆の時もあれば、落花生の時もある。
 
 
東北での大豆の収穫期は初冬で、冬季は味噌づくりに多く使う。
東北では納豆や豆腐もよく食べるが、夏季にもやませが吹くなど、厳しい寒さと共に暮らす地域にとって、栄養を得られる保存食の大豆製品は重宝だ。
 
節分の豆まきで、煎り大豆を撒くのはもったいないと思ったか、落花生ならば撒いても見つけやすく拾って食べられるためか、東北では落花生を撒く家も多い。
 
 
去年も今年も、落花生を節分豆に選んだ。
千葉の「八街産」のもので、これが実にうまい。同じ落花生でも産地でこうも違うかとびっくりする。
 
 
落花生は、飽和脂肪酸と不飽和脂肪酸の均衡が大変良いという。
ミネラルやたんぱく質も多く、コレステロール値をさげる、血管を強くする、糖尿病を軽減、といった効果が期待できるそう。
 
 
落花生の日本での本格栽培は明治期らしい。
火山灰地を好み、痩せ地で育ち、当時は落花生油が高値で売れたため、栽培が拡大したという。
 
ことに千葉は、早くから栽培して県でも奨励したため、一大産地となった。
戦争で作付け統制によって栽培が減ったが、戦後の統制撤廃で再び栽培が増えた。
 
(参考資料:日本豆類基金協会『おまめの話』/全国落花生協会「原産地・栽培の歴史」)
 
 
節分は大寒最後の日で、翌日は立春。
豆まきをして鬼を祓い、晴れ晴れとして春を迎えたいものだ。