かつて長崎県長崎市稲佐にはロシア海軍の駐留基地があった。
そして、長崎の悟真寺にはロシア人墓地があり、ロシア皇帝ニコライ2世、プチャーチン、ゴルバチョフ元ソ連大統領が訪れたことでも知られる。
長崎でのロシアの歴史は帆船『ナジェージュダ号』が台風の猛威を切り抜け、日本沿岸に近づいた1804年夏に始まる。ロシア外交の使節団長として、この船で日本に到着したのはレザノフ侍従だった。日本幕府は長い論議の末、日本はロシアとの交渉は行わず、ロシア船には日本沿岸から去ってもらおうという決定がなされた。この間、ロシア遠征隊は半年間もの間、延々と長崎港で回答を待った。日本の奉行は、しばらくしてロシア公使には仮宿として、長崎の梅ヶ崎(ロシア側の記録では、メガサキと呼ばれていた)につくられた中華街に隣接するいくつかの小さな館が与えられた。
それから17世紀半ば、江戸幕府は正式な交易相手をオランダに限定し、近隣のロシアの上陸は長く拒んできたが、嘉永6年(1853)、ロシア使節プチャーチン来航の際、初めて上陸を許された。
プチャーチン提督はフリゲート艦『アスコリド号』で長崎湾に寄り、そこで日露追加条約が結ばれた。翌年、当時はウンコススキー氏の指揮下にあった『アスコリド号』の修理が必要になったので、よく知っている長崎港への寄港が決まった。できることなら彼らを長崎の中心地に迎え入れたくはなかった日本側は、港を隔てた漁村の稲佐を上陸地に指定。町奉行との交渉の結果、ロシア人海兵のために悟真寺の一部が提供され、兵舎と船舶道具を置く倉庫などが造られた。
極東に不凍港を求めるロシア艦隊の「稲佐ロシア人休息地」、通称「ロシアマタロス休憩所」となった。乗組員は稲佐で休息をとり、艦隊は物資を補給。稲佐悟真寺国際墓地の南側には、ロシア兵の射的場もでき、これは明治36年頃まで続いた。
万延元年(1860)に弁天町の上部から、曙町の稲佐岳登山道路入口という碑がある付近に置かれた「稲佐遊郭」も、当初ロシア艦隊の乗組員向けにつくられたものでした。
万延元年(1860)に来日したロシア海軍提督ピリレフの要請により、稲佐遊郭において日本で初めて検梅が行われました。
長崎の稲佐地区には、ロシア海軍病院、ドック、技術工場など、停泊中のロシア軍艦に便宜を提供し得る施設が充実していました。稲佐はロシア人に好まれ、稲佐遊郭もあり、ロシア人を惹きつけていました。
1872年10月に『スヴェトラーナ号』でアレクセイ・アレクサンドロヴィチ大公が長崎を訪れましたが、その前年の1871年に、長崎のロシア領事館が公式認定されました。