今回は、「人間の自由意志」ということについて、天心聖教の初代様の教えをもとに、考えてみたいと思う。

人間はなぜ罪を犯すのか

前回まで6回にわたり、旧約聖書の「列王記」より、イスラエル王国の、アハブ王と王妃イゼベルの話について書かせていただいた。
アハブ王はイゼベルにそそのかされ、大罪を犯してしまったが、旧約聖書には、アハブやイゼベルほどではないが、罪を犯した人間は他に何人も登場する。


聖書によれば、一番はじめに罪を犯した人間は「イブ」である。

なぜイブは、神様から禁じられていた禁断の実を食べてしまったのか。

それは、蛇がイブをだましたからであり、神様のご命令をイブが軽んじたからである。

しかしこの問題をさらに突き詰めて考えてみたい。

なぜ、被造物に過ぎない人間であるイブが、創造主でいらっしゃる神様に逆らって、「禁断の実」を食べることが可能だったのか?

それは、イブが「自由意志」を神様から与えられていたからである。


自由意志を持つことの幸不幸

初代様ご訓話「信仰する者は幸いなり」に、次の通り諭されている。
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「この宇宙において人間の運命を支配するものは、神と悪魔との二つに限られております。そして人間以外の動物の運命を支配するものはおよそ人間であります。
(中略)
そこで自分は神の存在にあるか、悪魔の存在にあるかを自ら悟れるのは人間のみであります。他の動物にはこの悟りが無いのであります。
人間なればこそ、これを悟って、神の子として極楽生活に一生入るのも、また悪魔の子として地獄生活で一生終わるのも自分勝手であります。すなわち自分の自由自在であります。
それ故、たとえ悪因縁を持って生まれたとしても、悪魔の支配より神の支配へと、乗り換えることが自由自在に出来るのでありますから、豚や馬でなく人間として生まれたことの感謝に気づく必要があるわけです。

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と初代様は説かれていらっしゃる。

神様の支配下に入るか、悪魔の支配下に入るか、その自由を、神様は人間にお与えになっておられる。

そして、その自由意志によって、人間は、徳も積めば、不徳も積む。

また、幸福になることもあれば、不幸になることもある。

 

もしも自由意志がなかったら
 

神様が人間を創造されたとき、

もしも、自由意志をお与えになられなかったら、

もしも、神様の御心のとおりに、常に行動するように人間をお造りになられたとしたら、

いくら蛇にそそのかされたとしても、イブもアダムも罪を犯すことはなかったはずである。
 

それならば一層のこと、はじめから人間に自由意志などなければ、人間界に罪というものは存在しなかった。また、人類は国家間の争いなど一度も起こさずに済んだ。

そうなれば、平和な歴史を歩み続けることができた。

そのように思う人も、いらっしゃるかも知れない。

確かにその通りかも知れないが、そうなったらもはや「人間」とは呼べないだろう。

プログラムされた通りに動くロボットと、なんら変わらないからである。

 

自らの意志で神様を求めてこそ信仰心と言える

 

人間が「自由意志」を持ったということは、「心」を持ったということである。

我々信仰者は皆、「信仰心」というものを持っている訳だが、もしも人間に「自由意志」がなく、神様の御心のとおり、自動的に動くロボットのような存在だとしたら「信仰心」というものは存在しなかっただろう。
自らの意志で神様を畏れ敬い、
自らの意志で神様の御心を求め、

自らの意志で神様の教えに従い、

自らの意志で神様に懺悔し、
自らの意志で神様に祈り、
自らの意志で神様に感謝する。
これらはみな、「自らの意志」によるものだからこそ、「信仰心」と言えるのである。

 

人間が悪魔の支配下に入ってしまうのも、自由意志を持っているからである。

イブは蛇の誘いによって、一時的に悪魔の支配下に入り、罪を犯してしまった。

しかし悪魔の支配下に一時的に入ってしまったとしても、人間は、神様の支配下に乗り換えることが自由自在にできると、初代様はお諭しくださっている。

 

意志を持たないロボットのような存在ではなく、自らの意志で、神様の支配下に入り、神様を求めることができる人間として生を受けたことを、神様に感謝申し上げたいと思う。