今回は、「すべてが修行の道場」という教えについて、書かせていただきたいと思う。

神様の御教え

天心聖教の「神の聖旨」(神様の教え)に、次の教えがある。
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<5日の神の聖旨>
神は数多の人に現われて我れの師となり教え給う
人の行いのうちにも神の教えが現る。
人の言葉のうちにも神の声を聞くものなり
深山で座禅を組むより、複雑化した都会を道場として、多くの人と四ツに取組み、

すべてのものを対象として自己を磨いて行けば、立派な人物が出来上るのである。
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また、神様は「修行」について、次の通り御諭しくださっておられる。
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(「由来」より)
座禅を組むばかりが修行ではない。
店で商業を営んで儲けたり、損をしたりするのも修行の道場。

多くの人と話をするのも修行の道場。
勉強する図書館も修行の道場。
見る物・聞く物・善い人の行い・悪い人の行いを見るにつけ、自分の手本にもなれば、師匠にもなり、また自己が反省する資料にもなる。
人はどのような所でも、心掛けひとつですべてが修行の道場であって、道場でないものはひとつもない。
このような心掛けのない者は、どんな良い話でも、お説教でも、教訓になる芝居や映画を見ても何にもならず、皆無駄になってしまうものである。

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との御教えである。

店で営業を営んで儲けたり、損をしたりするのも、さらに、家庭も、仕事も、人生で見聞きしたり体験するすべてが「修行の道場」であると神様は仰せになっておられる。

商売人にとって、儲けるのと、損をするのとでは、大きな違いだが、

神様からご照覧になられたら、どちらも「修行の道場」なのである。

 

そこで、この「修行の道場」という意味について、考えてみたいと思う。

 

修行の道場とは

「剣道の道場」で修行する人たちは、日々、剣道の稽古を重ね、そして試合にのぞむ。
試合に勝てば嬉しいし、負ければ悔しい。
だから、試合に勝つために、一生懸命稽古をする。
それは我々の社会生活と似ている。

しかし、剣道の道場で修行する本来の目的は、試合に勝つためではない。
「剣の道を極める」ためである。
精神的な悟りを含めた「剣の道」を極めようとしているのだ。

もちろん、「試合の結果など、どうでも良い」と言っているのではない。それでは修行にならない。「勝つために真剣に取り組む」ということは大切だ。
しかしもっとも大切なことは、勝った時も、負けた時も、そこから何かをつかみ、さらに剣の道を極めていこうとする姿勢である。
 

そのように「道場」とは、「道を極めるための場」のことであり、そこから考えれば、この人間社会も、
「人の道を極めるための場」ということになる。

商売で儲かることや、事業で成功すること自体は素晴らしいが、それだけにとらわれていたら、一度の大失敗ですべてが終わりだと思ってしまう。またその逆に、大成功すれば有頂天になり、それが基で大失敗を招きかねない。

しかし、失敗も成功も「修行」だと心得ていたら、そうはならない。
失敗による挫折もなければ、成功による奢り高ぶりもない。
たとえ失敗をしても、その中から何かを悟り、人格を磨いてゆけば、大きな成功を納められる人物になり得るのである。


「人の道を極める」という、人生の大きな目標から見れば、事業の失敗も成功も、一つの通過点に過ぎない。

 

「すべては修行の道場」
そのような達観した生き方が出来る人間に、私もなりたいと思う。