観相師ふかマンです。

お盆が始まる前の日。
Facebookで繋がらせて頂いている皆さまには亡くなった方々を想い出すだけではなく。
遺品の整理や〝虫干し〟をされるのもいいですよ、とお勧めしました。

皆さまに何かしかをお勧めするとき、私は
いつも「自分にはどうだろうか」と自問自答する習慣があります。

虫干しに関してもそうでした。

ただ、今回は我が身を振り返る。というよりも
ある切ない出来事を思い出しました。

この出来事。
私だけが溜め込むのではなく。

皆さまにも是非に読んで頂いて、思い当たりあれば
何かしかの行動を起こして頂けたなら、と願いながら書きます。


何分中学生時代の事、一部激しい描写もありますが

ありのままを載せる、という事でご容赦下さい。


どうぞ、よろしく願います。


これは私が中学性の頃だったか、と覚えています。
夏休みの今時分頃、お盆はいつも
家族そろって、両親の田舎に帰っていました。

両親の田舎実家は同じ県内にあります。

集まれる親族で祖先の霊を慰め、互いの交友をあたため合おうという習慣で
幼稚園の頃から変わりなく続いていたものでした。

特に母の方の実家は自然多い山の裾にあるせいか
お盆の風情もなかなか、昔ながらのものでした。

元々、霊的な事には敏感な私。
この世とあの世との意識が何となく交じり合うような
こういうひと時は嫌いではありません。

お盆泊りも2日目。
親戚たちのおしゃべりから外れた私は暇つぶしに
〝旧い離れ〟の方に行きました。

そこは元々、精米工場や雑貨屋をやっていたところなので
何かしら珍しいものでも見つからないかな、と思ったのです。

離れには、屋根裏部屋があり
そこは叔父や叔母たちが子供時代の部屋でした。


「うまくいけば、すごいのが見つかりそう!」と

ワクワクしながら階段に足をかけました。

その階段・・・
わきの柱にかなり古い袋がぶら下がってました。

「おや?」と、柱から袋を外すと
ブワッとほこりがたって、せき込んでしまいました。

すごいほこり・・・何年ぶら下がっていたんだろう
このほこりのすごさからすると、何年って感じじゃない。
何十年もぶら下がっていたんだろうな・・・

そう思いながら、その袋を明るいところへ持っていって
改めて観てみました。

色褪せてしまっているが、元々は黄緑っぽい色だったのだろう
その袋には『奉公袋』と書かれていました。


縁あって、その頃から昔の軍隊にそれなりの知識を持っていた私には
直感的に〝陸軍に応召〟されたものっぽいな。と思いました。
奉公袋の『奉公』というからには、兵隊さん個人のものを入れる袋なんだろうな、とも。

親戚たちがいる、新しい方の家の空いてる場所にいって
その袋を開いてみました。
きっと、軍隊手帳やそういうのが入ってるんだろうな。と期待しながら・・・

と、入っていたのは
確かに何かしかの書類は入っていたんだとは思うけど
今となっては、それよりも別のものの方が印象が強く。それしか思い出せません。

その別のものとは
いくつかの紙が包んであって、ちょっと膨れていました。

…なんだろうか
そう思いながら、古くなってもろくなっている紙をゆっくり
丁寧に開いてみました。

ひとつは〝細いわら束〟のようなもの。
もう一つは〝コの形にくるまった、プラスチックの破片〟のようなもの。

ああ・・・
ゆっくり、少しずつ時間をかけて、それが何なのか理解できた私には

とても大事なものを見つけ出せた。と思いました。

わら束のようなものは、色褪せて茶色っぽくなった、兵隊さんの〝遺髪〟
プラスチックのようなものは、兵隊さんの〝遺爪〟

行けば死ぬ、と分かっている戦場に行く前に〝自分の形見〟と残し
生家に送ったものだったのです。

そうかぁ。
太陽の光に当たるのは何十年かぶりだんたんだなあ。

慰問袋の中身や、遺髪遺爪を広げて
湿気を払い干ししながら

「立派だった」と、その遺髪遺爪に声かけました。
そして、遺髪遺爪がこうして残ってるだけでも幸せだな。とも。

その声を聞いた親戚の叔母が「どうしたの」と、私をのぞき込んできました。

貴重な、この時をのんびりした顔で突っ込まないで欲しい。と思いながら
「英霊さんの形見ですよ」と、遺髪遺爪を紹介しました。

そうしたら、その叔母。
私が指さした先が何であるか分かると、ギャッ!と叫んで飛び出していきました。

そして、私の父親を呼び
親戚の叔父たちも呼び集めてきました。

父は私が両手に持っているものを
「汚いものを持っている」という目でしかめっ面。
叔父たちも「そんな気味の悪いもの」と言い出してくる。

・・・
小学校に入学したごろの苦い思い出が蘇ってきました。
(ここでは省きます)

「国の為に死んだ、この形見が気味悪いのか!汚いのか!」
堪らない気持ちが膨れ上がって、大声をあげてしまいました。

そして、その時に知ってる戦場
「ソロモン!」「フィリッピン!」「ニューギニア!」「北中国!(北支那のこと)」「沖縄!」など
片っ端から、陸軍の激しい戦いが行われた所の名前を
片っ端から、知ってる限り上げて

「みんな、国の為に闘って死んだんだ。だからここにいる(生きてる)んだろう、おじさんも叔母さんも!」

「何が「ご先祖様供養」だ、笑わせるな!」

と、更に怒鳴りました。

その奉公袋と、遺髪遺爪

お盆の仏壇に並んでいた供え物をバン!と放り投げて
「ここに置くべきものはこれだ!お盆が終わるまでは置いて!」と
遺髪や遺爪を仏壇の前に並べて、お線香あげ。

そして私なりのお経を差し上げました。


以上

こういう事がありました。
遺髪や遺爪に対する、父親や親戚たちの「汚らしい」という視線に
すっかり興奮してしまって、要点である英霊の名前を憶えていませんでした。

翌年、親戚に「あの奉公袋はどうしましたか」と聞いても
「あんな迷惑な!」というばかりで、全く相手にしてもらえずままに記憶が流れてしまいました。

今はもう、父方とも母方とも縁が切れてしまっているので
その奉公袋の事を確かめる術はありません。

あの日。
一瞬でも、日のもとに出すことができ。
仏壇の前に置いたこと。

それがあの英霊さんの供養に、少しでもなったなら。
と、そう想いを新たにしながら

戦争の記憶。
決して、消させはしまい。

その気持ちも新しくしつつ、この稿を終えます。

最後までお読み下さって、どうもありがとうございます。

お読み下さったあなたと、ご先祖さま
心よい絆が生まれますよう、お祈り申し上げます。