現代の日本で死語となりつつある言葉に、

『飢饉』

と、

『餓死』

がある。

だが、これらは決して地球上から根絶された訳ではない。

北朝鮮やアフリカでは、今でも珍しいことではなく、実のところ、人類の歴史とは、すなわち、

『飢えとの闘争史』

でもある。

『食うや食わずの生活』

という言葉があるように、人間、『食うこと』に追われていては、何もすることが出来ない。

今から、およそ5000年ほど前、『大河のほとり』で、その氾濫によってもたらされた肥沃な土が大量の収穫を生み、人類に、『余裕』というものが出来た。

それによって、初めて人々は学術や文化を創出することが可能になる。

『世界四大文明』

の出現である。

かのピラミッドとて、

『食うや食わずの生活』

では、決して造営することは出来ない。

ここで、改めて指摘しておかねばならないのは、

『飢え』

というものは、

『疫病』

と並んで、

『現在も人類最大の敵』

だということである。

これを聞いて、

『へぇ〜、そうなんだ』

『そんな事、初めて知った』

という方が多いとすれば(※実際にそうなのだが)、

『如何に、今まで受けて来た(社会科の)授業内容がおかしいか』

ということを、今一度、認識して頂きたく思う。

上記の、『四大文明』の一つの、『インダス文明』が呆気なく滅んだ原因は、気候の変化による農業生産の激減にあるのではないかという説もあるぐらいなのだ。

人間の数を、『人口』と呼ぶように、人は食べ物を食べなければ、生きて行くことは出来ない。

その為には、農業が、『上手く行く』必要がある。

ところが、昔は意外な場所で、そうは行かないということがあった。

例えば、琉球王国(沖縄県)や、薩摩国(鹿児島県)である。

これらの地は、特に東日本に比べれば、はるかに気候は温暖だ。

ゆえに、『餓死など無かった』と思うと、それはとんでもない大間違いで、実は東日本では豊作の年も、これらの地方では餓死者が多く出ていた。

ところが、この状況を、『一変させる作物』が現れる。

『サツマイモ』

である。

サツマイモは、例えば、火山灰地のような、他の作物を全く受け付けないような土地でも成長する。

稲のような面倒な世話が要らず、しかも栄養価が高く、尚且つ、味もいい。

云わば、『理想的な救荒作物』、つまり、『飢饉対策になる作物』で、まさに、『天からの贈り物』であった。

サツマイモの原産は中央アメリカらしい。

かのコロンブスが持ち帰り、それがスペインが支配していた東南アジアの植民地に広がり、やがて中国を経て、琉球へ渡った。

それが、まず琉球の飢餓を救った。

琉球へ初めてサツマイモを伝えた人物(野國総管(のぐにそうかん))は、『芋大主(うむうふしゅ)』と呼ばれている。

その琉球王国は、薩摩藩の実質的な領土となるが、その時代、琉球を訪れた薩摩の船乗りの、『前田利右衛門』がサツマイモを持ち帰り、母国(※ここでは薩摩国のこと)にこれを伝えた。

そして、『奇跡』が起こる。

薩摩全土が飢餓から解放されたのである。

その証拠に、『享保の大飢饉』の際、薩摩国では一人の餓死者すら出なかったのだ。

これは、まさに奇跡的な出来事であると言っていい。

ところで、『前田利右衛門』というと、現在では芋焼酎のブランドになっているが、ここで薩摩国に起こった、『劇的な変化』がもう一つある。

それは、

『酒が作れるようになった』

ということだ。

お分かりだろうか。

『食うや食わず』の土地では、ありとあらゆる作物が食べ尽くされた。

だが、それでも餓死者が出たということは、当然ながら、

『食料が足らなかった』

ということを意味する。

ところが、サツマイモが伝わったことによって、一人の餓死者も出さなくなったばかりでなく、『余った作物』が生じ、それを酒の原料に回せるようになったということが、如何に凄いことか。

学校教育の場において、こういった事柄が全く教えられていないということ自体、非常に嘆かわしい限りだ。

余談だが、サツマイモのことを、鹿児島県では今でもカライモと呼ぶ。

サツマイモが、唐(※中国の意味)から伝わったからだが(※実際は琉球から)、先述の前田利右衛門は、『甘藷翁(カライモオンジョ)』と呼ばれ、地元の指宿市山川の神社に神として祀られている。

確かに、話の切り口は、『地理』からかもしれないが、しかしながら、実際に学べる内容は日本史に加え、郷土史、世界史、果ては道徳に至るまで、実に多岐にわたるのである。

これこそが、

『教育の教育たる本当の姿』

ではないのか。

ただ単に知識だけを羅列し、詰め込ませるのではなく、

『先人や大先達への感謝』

や、

『日本に生まれ、この国で生きていられることの素晴らしさや有り難さ』

を教えることも、『教育の要諦』だと思うのだ。

それこそ、もっと工夫を凝らせば、更に素敵な教科書が作れるだろうが、実のところ、私にはその、『素案』がある。

上っ面な、『血が通っていない教科書』などではなく、

『人間を育てる為の教科書』

の素案が。

僭越ながら、その、『素案』の一端を示しつつ、これからも文章を書き続けてみようと思う。