どうも、にのです。
ここ数ヶ月、ナリ真理学の講座以外は自分に時間を使っていました。
特に時間を割いていたのは
・クソノート
・母親理解
・自分が今までいかに「反応」でやってきたか
・反応ではなく、時間をとって考えてみたらどんなふうに結論が変わるのか?
みたいなところです。
とは講座をノートにまとめなおしたり。
8億年ぶりくらいに思い出したんですが、私、ナリクロ(ナリ真理学の講座を受けている人たち)のインスタのグループちゃっと「アメブロ交流会」のリーダーなんですよ。2ヶ月弱くらい喋ってないけど。
なんなら、インスタの通知も全部OFFにしてるし。笑
自分で作りたいですリーダーやりますっていって発足したグループなのに、こんなに放置することができるんだなと自分でもびっくりしてるんですが笑
でも、正直、私が何も言わず放置してたって、メンバーは誰も私のこと1ミリも責めないっていう絶対的な安心感があります。
たまにチャットざっと見るんですが、「みんな全然楽しそうにしてるやん。オッケオッケ!」ってなって、そのまま何も喋らずインスタを閉じます。笑
毎日仕事して、土日にナリ真理学の講座みてノートとって、夫とドライブとかして、ノートとペン-クソノート-母親理解とかしてたら、全然インスタの時間とれないもん。
私は時間をつかうのが上手くないんだなとわかったので、時間を上手く使って、仕事も講座もインスタライブもグルチャも全部楽しもう!っていうのは諦めました。
そんなかんじで、全部やるのを諦めて、少しずつ自分のことを振り返る時間をなるべくとる生活をしていたら、ようやく「母親理解」がもう一歩進んだなという感覚が湧いてきました。
私、「昔の、私が物心つくかつかないかくらいのあたりの一番悲惨だった時代のお母さんを、ダイヤモンドと即答できるか?」ってところでずっと止まってたんですよ。
即答っていうよりも、
「いやもう母親ってどうでも良いっす。あれで精一杯だったっしょ、しょーがないわな」
「ま、今の母親はダイヤっすよ」
って感じで、なんの感情も湧いてこない感じでした。
コレで母親理解が終わってるかどうか微妙だな、私の現在地はどの辺なんだろ?ゴールではないかもな…とは思ってました。
でね、そんな状態だったので、「ノートとペン特別レッスン」ってやつを受けたんですよ。
そのレッスンをガイドに、まずはクソノートからやりなおしてみたら、
私、母親理解やったと思ってたけど全然だった。
まずクソノートが中途半端だったよね。
そんな状態で母親理解をしようとしてたから進めてなかったよね。
ってことが発覚しました。
で、ゆっくりゆっくり進めていったら、自分の中で整理がついて、まとまってきた。
・あ〜〜〜お母さんマジであれで精一杯だったんだね〜〜〜
・あのおばあちゃんに育てられてあの時代であの叔父を持ってあの時代に育ったら、お母さんああなるしかなかったよね
・私「ああしてほしかった」とか思ってたけど、お母さんも「ああしてほしかった」の方の人だよね
・お母さんは「ああ」をしてもらったことがないから、子供にどうして良いかわかんなかったよね
・お母さんは当時のあれで精一杯だったんだよね
・てかさ、全然目が行き届いてなかったよね
・お母さんって子育て大失敗してるよね
・お母さん、ずっと「反射」で生きてきたんだよね
・お母さん、「考える」を知らずに生きてきたよね
・なのに誰にも頼れなかったし助けてもらえなかったね
・お母さんずっと生きづらかったね
・できなかったんだね
・私はお母さんの「できない」を継承したんだね
・私、おかあさんから毎日毎日非ダイヤの英才教育を受けてたわけだ
・お母さんの子育てが大失敗だった
・だから私の心は育っていない
・私の心が育っていないっていうのが「現実」なわけだ
・私、人と目を合わせるの苦手だ。だってお母さんが私の目を見てたことってほぼないもんね
・私、今日会った事とかささやかな出来事を人に話すの苦手だ。お母さんに「今日どうだった?」ってきいてもらったことないから。
・私、人に「助けて!手伝って!」っていうの苦手だ。お母さんがいつも誰にも頼らず、ひとりでパンクしている姿を見ていたからだ。
・私はそもそも「これくらいでパンクするかな」っていうのが把握できてない。お母さんが把握しないでイライラしてる人だったから、私もそれしか知らない。
・私は「自分の機嫌を優先する」がいまいちわからない。おかあさんが自分の機嫌を優先してるのを見たことがないからだ。
・お母さんは子育てしくった。
・てか、お母さんは私に「生きづらい生き方」を、言葉で、態度で、行動で、背中で、生き様で毎日見せて、私はそれを日び刷り込まれて生きてきた。
・てことは、私はお母さん直伝の「生きづらい生き方」の英才教育を受けてきたわけだ
・てことは、私はお母さんから「非ダイヤの生き方」の洗脳をされて生きてきたわけだ
・てことは、私は(=母親は)すげーーー色々不器用だ
・てことは、私は(=母親は)「落ち着いて考えて、色々やってみる」っていう柔軟さがない
・てことは、私は(=母親は)生きづらい価値観をすげー抱えてる
・てことは、私はこれから育んでいくしかないわけだ
・健全な心が育ってないから、今から、積み上げていくしかないじゃん
みたいなことを、受け入れることができてきた。
で、「あーーー私ってゴミ人間の洗脳を受けてたわけね」ってことにきづけたので、
「あーーーお母さんもゴミ人間の洗脳を受けてたわけね」ってことになって、
「お母さんって、ゴミ人間の生き方・育てられ方しか知らなかったから、ゴミ人間に育てちゃったのね。いや〜〜〜お母さん育て方間違えてたよね!」って思った。
で、「あっ!わかった!“母親とはこういうものだ”っていう理想像があるから、“それができてない母親って非ダイヤだな”って思ってるのね」ってことが理解できた。
「理想像」と「できてない分」の差の分だけ自分を責めてる。
自分を責めてるダメージ分だけ、ダイヤ値が下がる。
「理想からかけ離れた全然できない母親」
「色々欠けてて、できないこといっぱいで、人に頼れなくてパンクしてて、いつもイライラしてて、間違えまくってる、当時の残念で不十分な母親」
のまんまで良かったってことなんだな、ってことが理解できた。
お母さんは、当時の「できない」まんまのお母さんでいて良かったんだよね。
「不出来で未熟な母」のままで完成系だったんだね。
ってのか、じわじわ腑に落ちてきた。
例えば、
今の私は「疲れたからごはん作らない!スーパーいって惣菜買ってこよう!」ってできるようになったけど、
以前は「疲れてもご飯作らなきゃ!私だって疲れてるのに!手伝ってよ!(イライラ)」ってやってた。
「疲れててもやらなきゃいけない、できる余力がないなんて失格だ」とか思ってたから、無理してた。笑
じぶんで勝手に合格点決めて、それに届かない点数分だけ無理してた。
で、今は、そういう無理はやめた。
合格点を下げたから、無理する必要がなくなった。
「疲れてるからやらない!しんどいのにやったらイライラするじゃん!イライラするより、惣菜買ってニコニコしてる方が良いもんね」っていう価値観を知ったからだ。
で、非ダイヤの「やらなきゃ失格」っていう価値観が生きづらくさせてるだけで、そのころも今も「できない自分」がいた。
「できない自分」は変わってない。
今も昔もずっとできないまま。
できないのを、無理してやるか、無理しないかだけ。
できなくても合格にするか、しないかだけ。
しんどいのに無理してやるから問題が起こってた。
しんどいなら無理ぜずやらない、だと問題は起こらない。
「しんどい」「つかれた」っていう自分はずっといて、
今も昔もかわらず存在してる。
「しんどい」「つかれた」っていう自分を許せてるかどうかだけ。
変わったのは自分の捉え方の方だけ。
「しんどい」「つかれた」っていう自分の存在を許せてるってことは、
「しんどい」「つかれた」っていう自分の存在を減点してないから、
ダイヤ値でいうと「0」なんだと思った。
「しんどい」「つかれた」っていう自分を許せなかった時って、
「しんどい」「つかれた」っていう自分を減点してたから、
減点してる分だけ「ダイヤ値がマイナス」で、だから非ダイヤなんだと思った。
てことは、
私に非ダイヤの英才教育をしていた当時の私の母親だって、
当時、「しんどい」「つかれた」っていう母親だった。
その「しんどい」「つかれた」っていう母親の存在を許してるかどうか、
が、
「当時の母親はダイヤモンドと言えるかどうか」
ってことなんだと思った。
「しんどい」「つかれた」っていう母親のまんまでいいじゃん。
「しんどい」「つかれた」っていう母親のままで存在しててよかったってことだ。
たぶん、当時の母親は「しんどい」「つかれた」っていう母親自身を許してなかった。
「ちゃんとやれ」って、「なんでちゃんとできないの」って、「ちゃんとできない自分」を責めてたと思う。
母親が母親自身を責めてるそのダメージ分だけ非ダイヤだったと思う。
母親理解が進んでなかった私も、当時の「しんどい」「つかれた」っていう母親自身を許してなかった。
「お母さんちゃんと母親らしくしてよ」って責めてた。
でも、今は、当時の母親が「しんどい」「つかれた」っていうのを「でしょうね!」って思える。
「そりゃ疲れるって」って思う。
生物として当たり前の現象だと思う。
疲れてもいいじゃんって思う。
疲れててしんどいお母さんのままでいいよって思う。
「疲れててしんどいお母さん」のままで100点だよって思う。
「疲れててしんどいお母さん」のままでオッケー!
疲れてるから減点とかない!
てかさ、疲れるって感じることって普通のことじゃね?
疲れててオッケーっしょ!!
っていう感覚。
「できないもんね。できなくていいよ。そのままでいいよ」っていう感覚。
「できないままでいいんです」っていう感覚が、
「当時のゴミ母もダイヤモンドです」って感覚なんだなと思う。
ここまで来れたな〜〜〜〜〜ここまでくるの長かったなあ〜〜〜〜〜。
ようやく来れたなって思うから、ちゃんと記録しておこうと思ってこのブログを書いてみた。
うまくまとまらなくてかなり長くなったけど笑
なんかこう、知識としてだけじゃなくて、じぶんのなかで「感覚」とか「腑に落ちる」とか「納得した」とか「理解できた」みたいなのを、形にしてみようと思った。