かほる川からの知らせ ⓵ | みらくる☆彡

みらくる☆彡

ブログの説明を入力します。

「組紐」

「組紐が、そこに在ります。」


わたしにそう伝える、

調香を天職としている

ソウルファミリーのお一人さまの声が聴こえ


下記のサイトに導かれました。


{6B4CBBED-2BE8-48DD-8D1D-D29CE8FDA4D0}


{2B920774-C5BC-4674-B071-8B4E56C7C06C}

新川神社由緒

新庄町島村学校組合校下の図 

新川神社の歴史は誠に古いのであります。 
  日本三代実録 と申します国史に「清和天皇(56代)の貞観九年(西暦867)二月二十七日丁酉、越中国正五位大新川神に従四位下を授く」とあり、新川郡の郡名は御祭神である「大新川命」の御神名から起こったと伝承され、永年人々の崇敬を受けて参りました。 
 その昔、本社神域は現在の場所より約2キロ北東方向の北陸街道(現在の国道41号線)の沿道である五本榎(ごほんえのき)辺りの 志摩の郷(嶋)八嶋野 に鎮座したしておりました。

五本榎周辺 

五本榎周辺

違い鷹の羽

「郷村名義抄」が伝える伝説によれば、「新庄村は白鳳三年(663)に老人夫婦顕れ、『我は 面足尊(おもだるのみこと)、惶根尊(かしこねのみこと) の化身なり、この地の氏神と成るべし。』と申すや霊験を現され、白鷹となり飛び去っていったという。それよりこの地を新庄村と唱えるようになった」と記してあります。今日でも新川神社の社紋は鷹の羽を意匠した「 違い鷹の羽(は) 」であります。

 累代新庄に住した越中の土豪である 三輪飛騨守長職(ながもと) は天文年間(1532〜)に 新庄城 (別名、太田新城・辰城)を築城し、城下の鎮守神として産土神・氏神である神々をまつり、社領・神器・ 神宝 等の寄進が盛んであったと伝えられています。 
 天文19年、三輪氏と争った 轡田備後守 が城主となった後も引き続き多数の神宝・神領を寄進され益々崇敬が篤かったと伝えられています。累代新庄に居した新庄城主は城下の守護神として篤く崇敬されました。 
 しかしながら古来より交通の要所でもある新庄の地は戦国の時代には戦略上も重要な拠点でもあり、度重なる戦火により新庄城は攻められては落城し、城主は幾度も入れ替わりました。新庄城の運命と共に神社の社領・神器・神宝も失われ衰退の一途をたどり、その縁起、古文書などのすべて灰と化し今日に伝わらないことは遺憾の極みであり、惜しむところであります。

新庄城趾・新庄小学校 旧・新庄町史掲載の見取り図

 奇しくもこの新庄城が一国一城令により廃城となった元和元年(1615)の夏、新庄城と運命を共にするかの如く常願寺川の洪水のため新川神社の社殿、神宝、神器はすべて押し流されてしまいました。

境内地が田んぼと段差があり、高台であったことを偲ばせる 

民家も多くつぶされていくこの時、氏子(住民)たちは必死の思いで今の境内地に集まり、遙かに新川大権現に向かい、 「このところを限界として洪水を留めてくれるのであれば神殿をここに遷しまつりましょう」 と誓を立て祈願いたしましたら不思議にも水はたちまち減退していったので一同歓喜いたしました。そして誓いを立てたとおりに、翌年の元和二年には附近の住民(新庄・広田・嶋・針原)達は力を併せて新庄城外の高台である現在地に遷座されたのであります。この地はその当時はずいぶん高台であったようですが 安政5年の地震後の大洪水 の土砂にて廻りが埋まり、自然に現在のような平地になったのであります。

木彫りの龍神 

新庄遷座以来、数十回の洪水があったのですが社地には被害はなく、元和以来の境内として氏子の皆さんには水神として尊崇され、拝殿の桁に大きな 木彫りの龍神 が祀られ、水噴き龍として畏敬されています。

安政の洪水絵地図:滑川市立博物館蔵 安政の洪水絵地図(拡大)

(安政の洪水絵地図:滑川市立博物館蔵) 
この絵図「安政五年常願寺川非常洪水山里変地之模様見取図(里方図)」の茶色部分が4月26日に泥が入った地域を表します。町新庄が半分泥で覆われていることが解ります。新庄新町が濁流の瀬先にあたり、最も凄惨を極めたと「新庄史稿」が伝えることがこの絵地図からも読み取れます。新川神社の境内地は赤い○の「町新庄」の右側、赤く太い線が北陸道ですのでちょうど曲がり角附近に位置すると推測できます。このことから、安政5年の時は土砂は流れてきたけれども、境内地は高台にて社殿は被災を免れたことが解ります。

今日では元和の洪水以前の物として 天神掛け軸一幅 のみが神職家に伝えられています。

天神掛け軸:滑川博物館蔵 天神掛け軸(拡大)

 元和の洪水で中川ができてその東に向新庄村が出来、明暦二年(1656)の洪水に出来た川筋を荒川といい、その川の西に荒川村が出来ました。元々一つの新庄町だったのですが洪水の川筋でそれぞれ町新庄・向新庄・荒川村に分かれ「新庄三ヶ」と呼ばれ、今日に至ります。

新庄古絵図・新川 新庄古絵図・新川(拡大)

(越中古絵図:「越中旧事記」富山県立図書館所蔵) 
 荒川を「新川」と記した、貴重な絵図。元は新川神社の傍を流れるので川筋を「新川」または「新庄川」と呼んだが、数々の洪水を以て田畑を荒らすので「荒川」と名付けたという。

 古来より新川一郡の総社でありますので、新庄に鎮座以来も近郷の住民が春秋の祭礼には集い賑わいました。また社殿の修理の節には旧例により旧の島郷の郷民である向新庄村、荒川村の新庄三カ村はもちろんですが元の社地に近かった広田・針原の両郷からもお手伝いされ、多いに社頭を盛り立ててこられました。

卯杖・卯槌(うづえ・うづち)祝の額 

この行事は古来宮中にて正月初卯の日、邪気祓いとして行われたもので、新川神社では天保四年(1832)まで行われていました。 絵馬に描かれている卯杖(うづえ)とは、桃の木と五色の組紐でつくった杖で邪を祓う力がこもっているとされ、災いを避けることができるとされています。この奉納額は弘化四年(一八四七)に富山藩の画家・ 山下守胤(やましたもりたね) の描いたものです。【写真】 卯杖・卯槌(うづえ・うづち) 祝の額

どべ また、毎年4月19日に斎行される春祭には神輿渡御があり、その先導役として新庄では「 どべ 」と呼ばれる露払いの神が有名です。「どべ」という名称は新庄の民衆がいつのまにか呼ぶようになった固有の呼称で、他の地方では「どべ」とは呼びません。本来は古事記・日本書紀の神話で天孫降臨の場面に登場する伊勢を所領していた国津神である 猿田彦神(さるたひこのかみ) であります。 新川神社の猿田彦神である「どべ」は、新庄独自の衣装をまといます。 その姿は武士の甲冑にわらじをはき、怖面の赤色の面を付け、大頭巾で長髪を結わえた姿で大長刀を振り回して露払いをおこなう姿を一目見るため近郷近在より大勢の人が訪れます。なかでも子どもたちはどべに追われて逃げ、捕まえられてその恐ろしさからワッと泣き出す場面もあり、たいそう賑やかなお祭であります。昔からどべに頭を撫でられるとできものが出来ないといわれ、嫌がる子供をどべに差し出す母親の姿もみられ、県内でも奇祭として知られています。

どべ1 どべ2 どべ3どべ4 どべ5

新川神社より。


{C9FBD07F-F107-4724-A8A2-EA40B6B312E7}


{7407586F-EB0F-461D-965D-B8DDD7392E23}


大己貴命白山比咩命天照皇大神菅原道真公を主祭神とし、琴比羅神建御名方命を合せ祀る。

大己貴命を「大新川命」、白山比咩命を「大新川姫命」と称して尊崇されており、『国史大系』では新川郡の地名は大新川命に因むものとしている。

貞享2年(1685年)の由来書には「白山、神明、天神云々」とあり、「新川四社権現」とも称された。


新川神社より。