20年以上前に板坂元という文筆家の『考える技術・書く技術』(正篇・続篇あり)という本を読んで以来、そこからヒントを貰う形で影響を受けて今も役立っていることがある


プロの手法というのは人によっても色々あるようで、その2冊の本でも高度なやり方が紹介されているが、そこから学んだ誰にでもできるシンプルなことなので個人的につらつらのほほんと書く



わたしがメモをとる

それは紙かもしれないし音声レコーダーかもしれないしパソコンの記録かもしれない

メモがどんどんたまっていく

その集まってきたものが示している気づいていなかった意味やテーマや文脈を見つけるところに本筋がある



最初から自分のアタマの中にあるカテゴリー(範疇)――それはどこかから無意識に与えられたものか、あるいは自ら意識して選んでいるもの――にただ振り分けるのでは本筋には触れられずにその手前で引き返していることになる

いやまぁ、もちろんそれもあるけれど、その際でも大事にしようと想う感覚が自分が想うところのその本筋だ



集まったこだわりの痕跡を時折つらつら眺めながら、メモした意図とは異なったものが浮かび上がっているのを見つける作業

分類は元から作ってあるカテゴリーに納める整理の意味もあるのだけど、それだけだろうというのは単なる思い込みで、それよりも自分でもわかっていなかったものを産み出すところに醍醐味がある気がする

始めからメモを収める枠組みをあれこれ決めた場合でも、実はそれは別の集め方で見てみると気づかなかったテーマが現れていることに意識的であるようにする

これが切り離せないノートなどで裏表に別のことが書かれていたりすると厄介で、後からあれこれ自分の好き勝手に抜き出して組み合わせを変えたりできず、もう一度写したりとかしなければいけなくなるので、もしそのように書く場合には敢えてその″狭く入り組んだ雑貨屋さん″的なワクワク状態を演出しているのだとか自覚しながら書く


情報洪水のことを考え始めてからこのかた、これは自分のなかでは基本中の基本になっていることのひとつだ

定着してくると、記録する作業かどうかに拘わらず自分のなかでもそれをするようになったりする


せっかく膨大な知識を持った一部の専門家が、あまりにも安直な結論づけをしたりあとはそれを強弁する手段に集中したりするあの忌まわしき思考回路は、あらかじめ自分のなかで決まった分類に終始してしまうことの落とし穴かもしれないと想う




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おまけとして書くと、世の中で意味不明だと想う分類のひとつに本屋さんの文庫や新書の所謂ポケット・サイズの書籍、なんなら選書やコミックでもそうであるケースがよく見受けられるが、出版社別になっている分類、あれの意味がわからない

いや、元本屋だから、至極ごもっともな理由ならいくつか思い当たるが、それらは少なくともお客さんの視点ではない

お客さんとしては解せない

時折憤りすら感じるかもしれない

判型(サイズ)が違うと本が痛みやすかったり棚に無駄なスペースができたりするのでそれを分けるのはまだわかるが、同じ判型で同じ著者なのに出版社が違うというただそれだけの理由であちらの棚とこちらの棚とそちらの棚、離ればなれにささっている

探すお客さんに出版社別に著者探しすることを強要している悪しき分類だなー、と昔から個人的に想っている