週末久しぶりに、仙台の実家に行ってきました
妹も嫁いだので、実家には父と母のふたりだけ。
遅めの到着にもかかわらず、両親は夕食を一緒にと待っていてくれました。
初日から親心に触れつつ・・・。
5月11日(土)にちょっとドライブしてみようかと、両親と一緒に、仙台の海沿いエリアへ。
閖上(ゆりあげ)と蒲生(がもう)に行ってきました。
震災後、石巻方面には何度も行きましたが、この辺には初めての訪問でした。
閖上の日和山には、こんな感じの慰霊場所が↓
↑階段を上る後ろ姿は母です。。。
来訪者がけっこういるもんだなぁと思いながら、ふと時計を見ると、この時は11日の14:45。
この時間だからこそ、手を合わせに来た来訪者の意味に後から気づいた自分。
光景を見て気づいた自分にちょっと自己嫌悪。。。
お花やお供え物や千羽鶴が手向けられています。
状況から察するに、地元の人達や仙台近郊の人達は毎月この日のこの時間に手を合わせに訪れているのだと思いました。
上記画像の向こうは、荒野に一本道が見えますが、震災前は住宅がびっしり建てられ2000世帯以上が暮らしていた地域なのです。
近辺は道路沿いにびっしり松が生えていて、所々密集していたのに、今ではポツン、ポツンと。
直後には青々と残っていた松林も、海水をかぶったせいで、徐々に枯れていったそうです。
少しだけ残った家は、すっかり寂れて廃墟になっていました。
蒲生に行くと、やはり住宅密集地域は荒野になっていました。
↓下画像のまんなかあたりに人が集まっているのがギリギリ見えますが、これも11日の震災時刻なので集まって慰霊しているところです。
蒲生は、小学生の時に母と自転車で訪れたエリアで、土手のギリギリまで波が打ち寄せる美景スポットだったのに、震災で向こう岸に砂の壁ができてしまい、手前は濁った水たまりになっていました。
今は影も形もなくなりましたが、日本一低い山と言われた日和山の立て看板だけ残っていました。
この看板の後ろに、石を積み上げた数十センチの小さな山ができていたので、私も石を拾って積みました。
白板に書かれたメッセージが、胸を突きます。
日和山というのは、石巻だけにあるものだと思っていましたが、結構いろいろなところにあることを今更ながら知りました。
また、2年以上経ったにも関わらず、人の住んでいない家屋が残っていました。
廃墟と化していますが、取り壊してもいいのかどうか確認が取れていない家屋だけ残っているようです。
つまり、住人で取り壊しのOKを出す人がいなく承認が取れないせいで残っているということで、それができる大人が誰も生き残れなかったことを意味しています。
復興作業といえば、田畑の除塩作業と、盛り土の運びこみくらい。
それでも、地道に行われていました。
震災から2年2か月経った今、除塩と盛り土準備だけ。
改めて、復興の遅れと難しさをまざまざと見せつけられました。
自分にできることは何かないのか、、、考えさせられました。
とりあえず、健康で家も無事で暮らしている両親と時間を共にした後で東京に戻りました。
日曜日の仙台国際ハーフマラソンを盛り上げてくれたみなさまに感謝しつつ・・・。