中学3年生、高校受験の合格発表と卒業式を控え、

出来たばかりの卒業アルバムに寄せ書きをしてもらいながら、

「卒業生から先生へ花を贈る係」になった私を含む数名の生徒は、

先生方へ贈る花を受け取りに職員室に居ました。

 

その時でした。

経験したことのない激しい揺れが私たちを襲ったのです。

 

立つこともままならない私たちは、先生に手を引かれ、

机の下へ投げ込まれるようにして隠れました。

揺れの衝撃で、職員室にあったものはほとんど倒れて落ち、灰色の埃が目の前を覆いました。

隣の机に隠れた友達の泣き声が聞こえました。

 

揺れが収まり校庭へ逃げ、安否確認をし自力で家へ帰りました。

学校の時計が14時46分で止まっていたのを覚えています。

 

強い揺れは地域のライフラインを寸断し、明かりの無い夜を過ごしました。

3月といえど、まだ寒く、雪がちらつきました。

 

津波の情報はほどなくしてラジオとカーナビから流れてきました。

 

高校生になったら行きたいと思っていた場所がありました。

あっという間にその場所は黒い波に飲まれていきました。

 

ラジオからは聞いたことのある地名、行ったことのある場所が「壊滅状態」という言葉で形容されました。

 

浸水などの被害が無い内陸部に住んでいましたが、ライフラインの完全復旧には2週間程かかりました。

 

最後に復旧したのはガスでした。

応援で駆け付けた大阪ガスの職員さんが「ガスの点検が終わりました、もう使って大丈夫ですよ」と

関西特有のイントネーションがほのかに残る話し方で、伝えてくれたのを覚えています。

 

 

 

思い返せば、大きな揺れが襲ったあの瞬間から、様々な境を越えた支援が始まっていたのだなと、

11年経ってやっとそう思える様になりました。

 

何年経っても鮮明に思い返される震災の日の出来事、

高校生になって出会った、津波で家が浸水した友達。

そんな彼女が「どうして津波なんか来たんだろう」とSNSで呟いていた事、

支援の手が差し伸べられる一方、心無い言葉も飛び交っていた事、

前を向く人もいれば、前を向かなければいけない人もいるという事・・・

 

 

震災という凄惨な出来事は、様々な考え方に触れるきっかけにもなりました。

 

 

そして今、様々なご縁があり、東北からは遠い静岡の地で私は生きています。

 

 

震災の事をあまり話すことはありません。

しかし、近頃やっと、「忘れられない」という気持ちから「忘れない」という気持ちに変わってきました。

 

時が移ろい、それに沿う様に気持ちも変わってゆくのだと思います。

 

拙い文章ですが、このブログで11年前の今日の出来事について綴らせて頂きました。

故郷への思いを乗せて、14:46、静岡県富士市より黙祷いたします。

 

 

 

これからも、忘れない為に。