切なそうに…
それはもう切なそうに…
公園の木が作業員の方の手により
切り倒されるのを見ている
お爺さんがいました。
場所は娘が昔よく遊んだ公園。
今まで当然のようにあった木でしたから、
それを切ってしまうのは
私も少し寂しい気持ちがしました。
ただ、
木が多すぎて
ちょっと影になっていて見通しが悪いし、
不審者対策で切ることにしたのかなぁ
なんて思ったりもしました。
しかしこのお爺さん、
とても寂しそうな雰囲気。
そんなことを思いながら
そばを通りすぎた時
あっ
と思いました。
このお爺さんは
そう、むか~し昔…
娘がまだ3歳くらいの頃で
公園で木登りして遊んでいた時のこと。
「こら!
木が傷つくから登るんじゃない!!」
と、目くじらたてて
怒鳴りまくってきたお爺さんがいましたが、
なんとそのお爺さんだったのです
公園には遊具やお砂場もあるけれど、
超自然児お転婆娘だった娘は
木登りが大好きでした。
お爺さんに怒られた時、
娘はシュンとしていましたが、
木登りは昔から遊びとして
あったことだし、
あんな小うるさいジイサンが
最近は多いから
今の子供達がなよっちいくなるのよ
そんな持論があった私は
もちろんそのお爺さんがいなくなってから
「登っていいよ」と、
木登りを続けさせてあげましたけどね
確かに木が傷つく…と言われれば
そうなのかな。
でも木をけずったり穴をあけたり
しているわけではないですし…。
勝手な考えかしら?
でも、木だって子供に登ってもらえたら
嬉しいのではないの?
それに娘は木が大好きだし
かくいう私も子供の頃、
木登りは何より好きでした。
登りやすい紅葉の木と
サザンカの大きな木が実家の庭に
あったのですが、
その木の上で本を読んだり、
おままごとしたり、
木の上でたまにカナヘビさんと
こんにちは〜
なんてことも。
(今じゃ考えられませんが)
夏の暑い日には
日かげにあったサザンカの木に登り、
そのつるつるした表面に頬をあて、
ひんやり感を楽しんだり、
秋になると紅葉の木に登り
色づく紅葉の天井を見上げたり、
木が子供の頃の私に与えてくれたものは
遊びだけではなく、
その大きさから安心感や生きる力を
もらった気がします。
「おおきな木」という絵本があります。
いつでもそこにある木。
成長し、変わっていく少年。
それでも木は
少年に惜しみない愛を与え続けた・・・
何度でも読み返したい、
読むたびに感じる想いも変化していく、
シルヴァスタインのロングセラー絵本です。
子ども達も大好きで
幼稚園に通う頃は何度も繰り返し
読み聞かせをしてきました。
私はこの絵本を自身が幼い頃に読んだことは
ありませんでしたが、
大人の私が初めて読んだ時
親が子を想う気持ち、
自己犠牲を厭わない気持ちを
切に感じたものでした。
そして今、
本棚の奥からがさごそ出してきて読んでみた時、
実家のサザンカとモミジの木が
思い出され、
目頭が熱くなる自分がいました。
2本の木は私にとって
寂しい時、悲しい時にすべてを受け入れ
寄り添い癒し、
一緒になって遊んでくれた
”お友達であり、とても大きな存在だったのだ”
ということに
今、気付いたのでした。
そこで
私が見たあのおじいさんにとって
木とは何なのか?
について改めて考えてみました。
そして
ハッとさせられました…。
おじいさんにもまた
木との様々なストーリーがあったのかも
しれない…と。
倒される木を切なそうに
眺めていたお爺さん。
我が子を切り倒されてしまうような想いを
抱かれていたとしたら…?
こちらもまた
あの時あの木に登って
傷つけてしまって申し訳ありませんでした
という思いを、
持たざるを得ない気持ちに
ちょっとだけ、なったのでした。
ま、
あの木は
お爺さんのものではないんだけどさ〜