一回目は12月2日に題名を「ヨタヨタ日記」にするか「ヨボヨボ日記」にするか迷っている事を書いたのを,ほぼ1月間迷った結果『ヨタヨタ』に決めて、12月3日(東風)の欄には、夜間頻尿が治った話を書いているのだが、あまり品のいいことではないので先にゆずることにした。
12月5日(金)朝雨、その後空も海も真っ青の快晴。寒い。
21時50分頃の月を撮る。撮影技手が下手だから折角の名月が台無しだ。しかし、今年最後の二十三夜さんかもしれないから撮っておいてよかったのかもしれない。(いま12月5日を調べてみたら旧暦10月16日は満月であることが分かった)
母が元気だった頃、40年か50年前のことだが三夜さんというものが行われていた。20年ほど前そんなことを思い出して、三夜さんって何だったんだろうかと興味が湧いて調べてみたことがあった。小長井とか湯江などの北高では今でも(20年前)その風習は残っているという。全国的にも三夜さんはあって東北地方では一般的な行事らしい。それは親鸞聖人が承元の法難(1207年)といわれる流罪地が越後だったからだと言われている。
私が高校生の頃、母たちは婦人会だ、お寺さんの寄りだ、遺族会だ‥、と休む暇もないくらいせわしく、その忙しさを楽しんでいたように思う。三夜さんもその中の一つであった。
軽く夕食をすますと、今年の三夜さんの当番の家に集まる。三夜さんには講がつきもので、そしてご馳走が出るらしかった。そこでどんな話が交わされるのか、お正信偈か仏説阿弥陀経が唱和されるのだろうけれど、三夜さんというのはつまり観月の事である。十五夜の満月をはじめ十三夜というのもある。三夜さんは二十三日の月のことを言う。母はその頃60歳前後だったと思うが、今の私から見てもその頃のおばちゃんたちは鋭気溌溂どんな難関も突破するような勢いをもっていた。殆どが後家さんであった。強い指導的な人が2、3人いてその人たちの言う事に母はついていくタイプで心からの仏教信心者だから、率先して出ていた。彼女たちの誰が三夜さんの真髄を極めていたのか今では知る由もないが、おばちゃんたちの一人一人の顔を思い出しながら、私も半信半疑でいたので20年ほど前実験したのであった。
満月は夜9時頃はほぼ真上にあるが三夜さんはかなり遅い。おそらく0時を過ぎるのではなかったかな?だから母は途中で家に戻って丹前とか毛布を持って行く姿を覚えている。月の舟には仏さまが2人か3人乗っており、その体は黄金に輝いている。月の船も金色なのだ。仏さまからも舟からも幾筋かの瓔珞が垂れ下がり、厳かで煌びやかなのだそうだ。実験では明徳寺の西側を通り福祉村へ向かう道のりの半分の大きな曲がりの所が常夜灯の照明も届かず暗い。ここで私は月の出を車の中で待った。
月はハッキリ見えた。その頃私も老眼になりかけていたので遠近両用をかけていた。眼鏡をはずすと月はぼけて見えた。おばちゃんたちは60歳代以上だからこの老眼で観ることになる。信心深い彼女たちは金銀、瓔珞の美しさを何回も何回も聞かされて十分に期待している。そういう熱い篤信の心で見れば黄金の舟に黄金の仏さまが瓔珞を纏っているお姿がボウッと見えるのではないか。罰当たりの私はそう結論を下した。
これを書いているうちに除夜の鐘も終わり、年をまたいでしまった。床を延べて新年の夜を寝た。
6時の目覚ましに起こされた。元旦である。いつもは5時前に目覚めるのだが昨夜は遅かったので、その分伸びたのだろう。準備して散歩に出た。大漁旗で飾った漁船の晴れ姿を取るつもりである。しかし今年は大漁旗は立てていない。がっかりしてもう少し先へ行って雲仙岳だけでも撮って行こうと思って進むと上から下ってくるカップルと会う。挨拶を交わしていると若い女性の二人が来た。大漁旗が立っていないことを話すと、なんとなく話があまり通じていない気がしていると、また後ろからカップルがきている。そこでやっと私も気づいた。この人たちは初日の出の御来迎の為にわざわざ他地域からきているのだ。そう思ってみるとバスの終点広場にいつもいない車が4、5台停まっている。そうか、初日の出か。急がねば。今のこの道はうみをうめたててつくったもので、従来はこの崖の上に昔の道がある。そこは高いだけ眺望に優れている。急がねばならん。雲仙岳の方はもう赤く色づいている。道路上の家の裏へまわって、上の旧道へ上るコンクリートの階段を痛い腰を我慢して登った。息が切れた。もう出るか、もう出るかとスマホを覗いて20分。手はかじかんで感覚はない。ああ、やっと撮れた。帰郷している息子に頼んで、第1回目の写真が載る。