Two Temple
Streetは、慈善団体である Bulldog Trustが所有する建物で通常は一般に公開されていませんが、使われる事の少ない冬の間は財団の所有している美術品を公開する展示会が開催され、私達も建物の内部に入ることができます。
ブルドック・トラストという名の通り、ブルドックのサインのかかるファザード。
この建物は、NY生まれのアメリカ人ウイリアム・ウォルドルフ・アスターが、ゴシックリバイバル建築家のジョン・グバロー・ピアソンに依頼して作ったオフィス兼住居として 1895年建築されました。
1789年、ドイツの小さな街 Waldorfの肉屋の小僧であったジョアン・ジャコブ・アスターは一念発起してアメリカに渡り、毛皮商として成功。「アメリカで最も裕福な男」と言われるまでになります。当時のアメリカでその名を知らぬ人がいないほど有名だった大富豪アスターファミリーの三代目として 1848年 NYに生まれたウォルドルフ。子供時代は、ドイツやイタリアに送られ家庭教師の元で教育を受け、ヨーロッパの文化を吸収しつつ成長します。後にアメリカに戻り、コロンビア大学で法律を学び、共和党員として政治活動に着手。アスターファミリーの嫡子としての人生を歩み始めます。 1882年にはイタリア公司としてローマに着任。
しかし、その後、 NYの社交界を牛耳っていたウイリアムの叔父ウイリアム・バックハウス・アスター(ウイリアムの父の弟)の妻であるキャロライン・リナと対立するようになります。
オランダ貴族の末裔であるリナは、現在のエンパイア・ステートビルのある NYの一等地に大きな邸宅を建て、 NYのファッショナブルなパーティには彼女からの招待なしには参加できないという程の社交界の実力者。因みに、ウイリアムの父はその隣の屋敷に住み、同居していたウイリアムにとってはお隣さん。
ウイリアムの母親が亡くなった後、リナは公式に「ミセス・ウイリアム・アスター」から、アスター家当主の奥方である事を示す「ミセス・アスター」と名乗るようになり、嫡男であるウイリアム・ウォルドルフの妻こそ「ミセス・アスター」と呼ばれるべきと思うウイリアムと対立。(リナは、ウイリアム夫人より年上の自分こそミセス・アスターと呼ばれるに相応しいと主張。)
ウイリアムの父親の没後、彼はアスターファミリーの財産を相続しましたが、リナは「ミセス・アスター」のタイトルを放棄しませんでした。この大富豪達は隣合わせに住んでいたのも相まって、アスター一族の争いはアメリカ内のマスコミでかなりの関心を呼んだそうです。結局、既に NY社交界で「ミセス・アスター」として君臨していたリナの権力を覆すに至らず、閉口したウイリアムは 1891年に家族共々ロンドンに移住することを決意。
移住する前に、復讐として自宅を壊し、お隣のリナの屋敷を完全に影にするドイツ・ルネッサンス様式 13階建てのウォルドルフ・ホテルを建築。ドイツ・ルネッサン式を登用したのは、アスター家が元々はドイツ出自で、オランダ生まれのリナとは違うよと言うのを強調したかったからなのかな。
しかし、強かなリナは、今度は彼女の自宅を更に高く豪華なアスター・ホテルに建て替える。(当初は厩に建て替えるつもりだったらしい・なんて奴・笑)
こうして並んだ二つのホテルが、その後融合し、エンパイヤステートビルの建築に伴って移転。今日の NYのランドマークでもあるウォルドルフ・アスター・ホテルの起源になったとは、 1990年にこのホテルを訪れた自分にとってはとっても興味深いです。この時代の NY社交界の生き馬の目を抜く雰囲気は、ダニエル・デイ・ルイスとミア・ファローの映画「 Age
of Innocence」でも感じる事ができますね。
建物の歴史を調べると、どんどん面白い過去が出て来るから、建物巡りは止められない。ただ書物を読むだけではなく、その建物の中で確かに生活し呼吸していた人が、どんな人生を歩み、何を考えてこの空間に存在したのか。その空間を共有したからこそ、過去の人物についても身近に感じる事ができるんだよね。
ロンドンに移住したウォルドルフファミリーは、当初、ロンドン一美しいと言われるバークレースクエアにある Lansdown House( 1935年より紳士クラブとして現在に至る)で生活を始めます。 1893年、オックスフォード州のテムズ川を望む壮麗な邸宅クリーブデンを購入。 1895年にオフィス兼自宅の Two Temple Placeを建築しますが、奥様の早すぎる死を契機にクリーブデンは引き篭もり用。うんうん、あの庭園には、美しいだけでなく憂鬱な雰囲気があったね。この前後、ウォルドルフは使用人を通じて自身の死をアメリカのメデイアに告知します。この嘘はすぐバレますが、彼はそれほど妻を愛していたのだろうか。それとも、大西洋を隔てたイギリスまでパパラッチするメデイアに閉口していたのだろうか。その後、 1906年にクリーブデンを息子に譲り(そしてクリーブデンは、同名の息子ウォルドルフと妻のナンシーの元で、チャーチル、チャップリン、ガンジー、バーナード・ショウ、アラビアのロレンス、キップリングなどなど、数えきれない程の重鎮達が訪れた歴史に残る屋敷となります)、自分は 1903年に買った本物ゴシックのヒーバー城(アン・ブーリンが幼少時を過ごした城)を買い取り、そこで余生を過ごします。
ヒーバー城を訪れた当時は、このウイリアム・アスターについて全く知らず、中世のお城の中にやけに軽い雰囲気の居住エリアがあって、それは超お金持ちのアメリカ人がこの城を買って住んでいたからだと説明されて納得したのだけど、あれが彼が晩年を送った住居だったんだ。
1901年に初めてヒーバー城を訪れたウイリアムは、すぐにこの城が気に入った。このゴシックの城は、ドイツ出生のアスターファミリーにとって、特別な思い入れを持つに十分だったのだろう。 1903年にはこの城と周辺の 640エーカーの土地を買い取り、彼のゴシックへの夢を実現させてゆく。
まずは、彼の友人達をもてなすにはゴシックの城は小さすぎたので、城の後ろにチューダー朝時代のコッテージを模した 100室以上の部屋のある宿泊施設を集めた村を建設。もちろん、堀で囲まれたお城から直接行き来できるように、屋根付きの橋も。電気や上下水道等の当時の Mod
Con完備ですが、配線は地下に埋め、チューダーの雰囲気を壊さないように細心の注意を払います。更に、広大な敷地には、ウォルドルフが子供時代に住み、公司としても住んだイタリア式のフォーマルガーデンを構築。こうして彼は、 20世紀のイギリスで、古き良きヨーロッパを彷彿させる桃源郷を築いたのですね。
前置きが長くなり、文字数制限を肥えてしまったので、続きます。