拙ブログを読んでくださった皆様

たまーに忘れた頃の更新だったにも係わらず読んでくださった皆様、
コメントを残してくださった皆様、
ありがとうございました!

最近はますます更新がご無沙汰になっておりました。
その原因の一つが、画像をダウンサイズしてからアップロードする作業。
そのうちダウンサイズしようと思いつつ、時が流れ…
その時は新鮮だった感動がおぼろになり…
記事にしようという意志も薄れ…

まあ、無精者の言い訳かもしれませんが(笑)。

最近、自分で画像をダウンサイズしなくても勝手に調整してくれるブログのプロバイダーがあることを知り、そちらを利用することにしました。

本来の目的であった、つまらない平凡な日々の記録を、そこで続けたいと思います。

アメブロを通じて、多くの方々と知り合い、実際にお会いしたり、懇意にしていただきました。
とても感謝しています。

これからも皆様のブログは覗きに行きますので、アメブロのアカウントは残しておきます。

本当にありがとうございました!

2015年5月1日
イースター・サンデーの今日、午後から晴れてきたのでどこかに散歩に行こうと相談の結果、以前から気になっていた、リッチモンドパークのキングストン・ゲート付近にある眺望ポイントマークまで行ってみる事に。

サイクリングや散歩で隅々まで行っていると思いきや、キングストン・ゲートの周辺はあまり行っていない。何せ、ウチからキングストン・ゲートに行くには、サイクリスト達にDead Man's Hill (死の丘)と呼ばれ恐れられている、かなり急な坂を登らないと到達できないのだ。

一度だけ、この坂道に自転車でチャレンジしたけれど、進めたのはほんの5メートルくらいで、あとはずっと自転車を押して登った軟弱者の私。以来、一度も自転車で近づく事はない魔界。

今日は、キングストン・ゲートの駐車場まで車で行き、そこから徒歩で眺望ポイントを目指す。

途中にThatched House Lodgeなる場所があって、名前の通り、藁葺き屋根のコテージでもあるんだろうなーと思っていたら…

こんな立派なお屋敷だった!ゲートに王冠が付いているから、元はホワイトロッジのようにロイヤル・レジデンスなのかなー。お屋敷の前の日時計は、ちゃんと正確に時刻を示していました。

その先には、こんな可愛らしいコテージが♪

破風の部分に木が張り付いていて、前庭の梅の花越しに見える姿が、まるで祖父母の家を訪れた時のような懐かしいような気持ちになる。古く慎ましい建物に対する郷愁は、我々のDNAに深く刻み込まれた共通認識なのかもね。


程なく眺望ポイントに到着。

ヒースロー空港からウインザーの森まで一望に見渡せる。背の高い建物の少ないイギリスは、ロンドンでも地平線が見えるのは凄いなー。


眺望ポイントからの帰り道、Thatched House Lodgeに差し掛かると、建物から4人出て来て、2人は「ありがとう。楽しかったわ~♪」と言いながらゲートの前に停めてあったとっても高級そうなBMWにのり、後の2人は「また来てね~♪」お見送り。


あらら、ここに今でも住んでいる人が居るんだ。一体、何者?!


気になったので、帰ってからググると、このお屋敷はアレキサンドア王妃(Princes Alexandra, The Honourable Lacy Ogilvy)の公式な住居で、Wikiの写真は、正にあのゲートの前に立っていらしたお方!


一応、セキュリテイ・ガードみたいな黒服は一人いたけど、私達のような一般人がお屋敷の表も裏もウロウロできるような所にお住まいなのには驚きました。


因みに、Thatched House Lodgeは、1673年に公園のキーパーの為に建築され、1727年に、イギリス初代大統領であるRobert Walpoleの住居として、恐らく当代一の建築家William Kentが増築。ということは、私のアイドルであるHorace Walpole(1717年生まれ)も、きっとこのお屋敷を訪れた事があったに違いない!


1771年に、またまた私のアイドルであるJohn Soaneが改築を加え、以来、Thatched House Lodgeと呼ばれるようになったのも興味深い。Thatched House Lodgeというのは、敷地内のコテージから名前をとったそうで、あの懐かしいと思ったコテージがかつては藁葺だったのだろう。


Soaneが、わざわざThatched という名前を用いたのは、何故なんだろう。やっぱり彼も、あのコテージに郷愁を感じていたのだろうか。


ところで、娘の部屋の窓際にある「お姑さんの舌」(Step Mother's Tongue)という妙な名前で呼ばれる植物、もう何年も育てているけど、今年、何故か開花。

日本ではサンセベリアと呼ばれている植物だそうです。透明だけれど粘性のある蜜が出て、水滴のようにたくさん付いています。良い知らせだといいなあ…





すっかり前置きが長くなりましたが、その、ウイリアム・ウォルドルフ・アスターのネオ・ゴシックの住居兼仕事場であるTow Temple Placeへいざ!

 


とってもゴシック~!

 

中に入ると、トーマス・ニコラスの彫刻で飾られた階段に感嘆!これらの彫刻は、ウォルドルフのお気に入りだった小説「三銃士」の登場人物。

 


階段の上のステンドグラスも美しい。建造された1895年が記録されています。


はっと我に帰って、足元の大理石の嵌め込み模様もゴージャスすぎる~!!

 


トイレのドアもこの美しさ。そして内部も♪

 


グレート・ホール。正にグレート…♪ため息ばかり。

 

ぐるりと歴史上の人物のレリーフが張り巡らせれているので、それを当てていくのも楽しいです。

ウォルドルフ・アスターさんは、今でもこのホールを見守っています。

 


美しい装飾の施されたグレートホールのメインドア。

 


こちらは、グレート・ホールの前の小さな部屋のドア。ドアを閉めれば隠しドアになるのがとても面白い。

 


展示の内容も興味深く、BC2500年のメソポタミア文字の刻まれたタブレット。

 


モリスの装飾の本。

 


日本の浮世絵コレクション。

 


美しい建物と、興味深いコレクションを堪能しました。因みに入場料は無料です。イギリスの文化に対する太っ腹加減を、改めて感じ入りました。

 

この日は、もう一つ展示を観に行ったので、続きます

Two Temple Streetは、慈善団体であるBulldog Trustが所有する建物で通常は一般に公開されていませんが、使われる事の少ない冬の間は財団の所有している美術品を公開する展示会が開催され、私達も建物の内部に入ることができます。

ブルドック・トラストという名の通り、ブルドックのサインのかかるファザード。


この建物は、
NY生まれのアメリカ人ウイリアム・ウォルドルフ・アスターが、ゴシックリバイバル建築家のジョン・グバロー・ピアソンに依頼して作ったオフィス兼住居として1895年建築されました。

 


1789年、ドイツの小さな街Waldorfの肉屋の小僧であったジョアン・ジャコブ・アスターは一念発起してアメリカに渡り、毛皮商として成功。「アメリカで最も裕福な男」と言われるまでになります。当時のアメリカでその名を知らぬ人がいないほど有名だった大富豪アスターファミリーの三代目として1848NYに生まれたウォルドルフ。子供時代は、ドイツやイタリアに送られ家庭教師の元で教育を受け、ヨーロッパの文化を吸収しつつ成長します。後にアメリカに戻り、コロンビア大学で法律を学び、共和党員として政治活動に着手。アスターファミリーの嫡子としての人生を歩み始めます。1882年にはイタリア公司としてローマに着任。

 

しかし、その後、NYの社交界を牛耳っていたウイリアムの叔父ウイリアム・バックハウス・アスター(ウイリアムの父の弟)の妻であるキャロライン・リナと対立するようになります。

 

オランダ貴族の末裔であるリナは、現在のエンパイア・ステートビルのあるNYの一等地に大きな邸宅を建て、NYのファッショナブルなパーティには彼女からの招待なしには参加できないという程の社交界の実力者。因みに、ウイリアムの父はその隣の屋敷に住み、同居していたウイリアムにとってはお隣さん。

 

ウイリアムの母親が亡くなった後、リナは公式に「ミセス・ウイリアム・アスター」から、アスター家当主の奥方である事を示す「ミセス・アスター」と名乗るようになり、嫡男であるウイリアム・ウォルドルフの妻こそ「ミセス・アスター」と呼ばれるべきと思うウイリアムと対立。(リナは、ウイリアム夫人より年上の自分こそミセス・アスターと呼ばれるに相応しいと主張。)

 

ウイリアムの父親の没後、彼はアスターファミリーの財産を相続しましたが、リナは「ミセス・アスター」のタイトルを放棄しませんでした。この大富豪達は隣合わせに住んでいたのも相まって、アスター一族の争いはアメリカ内のマスコミでかなりの関心を呼んだそうです。結局、既にNY社交界で「ミセス・アスター」として君臨していたリナの権力を覆すに至らず、閉口したウイリアムは1891年に家族共々ロンドンに移住することを決意。

 

移住する前に、復讐として自宅を壊し、お隣のリナの屋敷を完全に影にするドイツ・ルネッサンス様式13階建てのウォルドルフ・ホテルを建築。ドイツ・ルネッサン式を登用したのは、アスター家が元々はドイツ出自で、オランダ生まれのリナとは違うよと言うのを強調したかったからなのかな。

 

しかし、強かなリナは、今度は彼女の自宅を更に高く豪華なアスター・ホテルに建て替える。(当初は厩に建て替えるつもりだったらしい・なんて奴・笑)

 

こうして並んだ二つのホテルが、その後融合し、エンパイヤステートビルの建築に伴って移転。今日のNYのランドマークでもあるウォルドルフ・アスター・ホテルの起源になったとは、1990年にこのホテルを訪れた自分にとってはとっても興味深いです。この時代のNY社交界の生き馬の目を抜く雰囲気は、ダニエル・デイ・ルイスとミア・ファローの映画「Age of Innocence」でも感じる事ができますね。

 

建物の歴史を調べると、どんどん面白い過去が出て来るから、建物巡りは止められない。ただ書物を読むだけではなく、その建物の中で確かに生活し呼吸していた人が、どんな人生を歩み、何を考えてこの空間に存在したのか。その空間を共有したからこそ、過去の人物についても身近に感じる事ができるんだよね。

 

ロンドンに移住したウォルドルフファミリーは、当初、ロンドン一美しいと言われるバークレースクエアにあるLansdown House1935年より紳士クラブとして現在に至る)で生活を始めます。1893年、オックスフォード州のテムズ川を望む壮麗な邸宅クリーブデンを購入。1895年にオフィス兼自宅のTwo Temple Placeを建築しますが、奥様の早すぎる死を契機にクリーブデンは引き篭もり用。うんうん、あの庭園には、美しいだけでなく憂鬱な雰囲気があったね。この前後、ウォルドルフは使用人を通じて自身の死をアメリカのメデイアに告知します。この嘘はすぐバレますが、彼はそれほど妻を愛していたのだろうか。それとも、大西洋を隔てたイギリスまでパパラッチするメデイアに閉口していたのだろうか。その後、1906年にクリーブデンを息子に譲り(そしてクリーブデンは、同名の息子ウォルドルフと妻のナンシーの元で、チャーチル、チャップリン、ガンジー、バーナード・ショウ、アラビアのロレンス、キップリングなどなど、数えきれない程の重鎮達が訪れた歴史に残る屋敷となります)、自分は1903年に買った本物ゴシックのヒーバー城(アン・ブーリンが幼少時を過ごした城)を買い取り、そこで余生を過ごします。

 

ヒーバー城を訪れた当時は、このウイリアム・アスターについて全く知らず、中世のお城の中にやけに軽い雰囲気の居住エリアがあって、それは超お金持ちのアメリカ人がこの城を買って住んでいたからだと説明されて納得したのだけど、あれが彼が晩年を送った住居だったんだ。

 

1901年に初めてヒーバー城を訪れたウイリアムは、すぐにこの城が気に入った。このゴシックの城は、ドイツ出生のアスターファミリーにとって、特別な思い入れを持つに十分だったのだろう。1903年にはこの城と周辺の640エーカーの土地を買い取り、彼のゴシックへの夢を実現させてゆく。

 

まずは、彼の友人達をもてなすにはゴシックの城は小さすぎたので、城の後ろにチューダー朝時代のコッテージを模した100室以上の部屋のある宿泊施設を集めた村を建設。もちろん、堀で囲まれたお城から直接行き来できるように、屋根付きの橋も。電気や上下水道等の当時のMod Con完備ですが、配線は地下に埋め、チューダーの雰囲気を壊さないように細心の注意を払います。更に、広大な敷地には、ウォルドルフが子供時代に住み、公司としても住んだイタリア式のフォーマルガーデンを構築。こうして彼は、20世紀のイギリスで、古き良きヨーロッパを彷彿させる桃源郷を築いたのですね。

前置きが長くなり、文字数制限を肥えてしまったので、続きます。

ダイニングにあるこの非常にアダム的な置物には、蛇口が付いているので、何だろうとジロジロ眺めていたら、係員が、それは氷を保存する為の置物で、蛇口は溶けて出た水を排出する為なのだと教えてくれました。冷蔵庫のない時代、暑い日に氷で冷やした飲み物をサーブするのは、とってもノーブルなおもてなし。ジョージアンの名立たるお屋敷に、冬の間に出来た氷を保存するアイスハウスが必須だったのも頷けます。



ベッドチェンバーから更に続くアダムの装飾にクラクラ

 


因みに、これらのベッドルームは、実際に使われる事はなく、ショールーム的な位置づけ。キングやクイーンが訪れる事があれば使って頂き、その名を戴いたベッドチェンバーになるという仕組み。確かにね、周囲に椅子がズラ~っと並んだやたら背の高いベッドで寝るのは居心地悪そう。

 

アダムのデザインした部屋と家具の、幸福なマリアージュ見ているだけで幸せな気分になります。

 


家具や展示されている食器についている、これがチャイルド家の紋章。

 


紋章の象徴についても興味があるので係員に聞いたら、一番上の鳥は鷲だそうだけど、その下の三匹の鳥は不明で、何故、王冠を頭に頂かずに首にかけているのかはわからないそうです…

 

オスタリー・パークは、ハリウッドのバットマン映画のロケで使われたそうで、その際、ブレックファスト・ルームを監督の意向で暗い灰色に塗り直し。撮影後、その灰色を除去するついでに、本来はどんな色だったのか調査。それで明らかになった「明るい黄色」に塗り直す予定だそうです。私の大好きなジョン・ソーン博物館でも、ブレックファスト・ルームは明るい黄色だったのが印象に残っています。明るい黄色が朝のイメージなのでしょうね。

 

面白いのは、その調査の過程で、壁に記されたオリジナルのメモが発見された事。

 

ご興味のある方は、クリックして大きくして見てください。何やら計算してある数字が見えると思います。このメモの乗っている塗装の年代と12進法で計算されている事から、アダムの改築していた時代に書かれたメモである事が確認されたそうです。

 


今から四半世紀も前に、名も残さぬ大工さんが残したメモ。

壮大な歴史と、その次代に生きた名も無い人々を想う不思議な瞬間です。

 

最後に訪れたキッチンでは、ジョージアンのピザ窯を思わせるオーブンを見ることができます。

 


ジョージアンのオーブンでは、温度管理が難しいため、パンは全体が上手く焼けず、さっくり焼きあがった上部は貴族達に、水分が残っていたりドウイーだったりする下の部分は召使が食べたそうです。上流階級を意味するUpper Crustという言葉が出来たのはこういう理由だからなのだそう。これも、係員の人が教えてくれました。

 

アダムの美的観念と建築家としての創意に満ちているオスタリー・パーク。アダムのファン、ジョージアン建築のファンでしたら、是非訪れるのをお勧めします

 

さて、オスタリー・パークを訪れた後、ロンドン中心部のストランドを訪れる機会があり、オスタリーをアダムに改築させたご本人、チャイルド・ファミリーが創設したストランド一番地にあるチャイルド・バンクの建物を発見!

 

チャイルド・バンクの文様であるマリーゴールドが今でも堂々と掲げられています。

 


因みに、チャイルド・バンクは、現在の(いろいろ問題ありの)スコティッシュ・バンクの一部です。

数日ぶりに気持よく晴れた日。ナショナルトラストのボランテイアカードの期限は今月一杯だけど、殆ど活用しなかったなーと思い立ち、近場すぎてしばらく訪れていなかったオスタリー・パーク(Osterley Park)へ。


駐車場に車を停めて建物へ向かうと、途中にある池のほとりで読書に没頭する紳士の姿。文化的だわー。翻って、家の中で漠然とPCに向かってばかりの私。やはりオバサンでも書を持って街へ出よ!と思ったのでした。そう言えば、最近はミステリー系の軽い本ばかりで、心にずっしり響く書籍にはご無沙汰だと反省。


池の先に見えてくる、堂々としたオスタリー・パークのファサード。

 


この土地には、チューダー様式のマナーハウスがあり、
1562年にそれを買ったのがトーマス・グレシャム(Thomas Gresham)。彼のお父さんリチャードは、ノーフォークの村から一旗上げにロンドンに出て来て商人として成功し、後には国会議員やロンドン市長まで務めた男裸一貫放浪記みたいなお方。そのご子息のトーマスさんは現在の「銀行」システムを築き、今の王立取引所の基礎を構築。彼の言葉「悪貨は良貨を駆逐する」は「グレシャムの法則」として彼の名前を冠して今日でも生き続けている。

 

グレシャムのもう一つの功績は、グレシャム・カレッジ。当時からの目玉であった誰でも参加できる無料レクチャーは、今日でも続けられている。貴族ではなく商人出身の家系だからこそ、教育の重要性を痛感していたのだろう。

 

グレシャムの財産は、現在のレートで32ビリオンだったそうですから、日本円で57千億円くらいですか。ゼロが多くてどんだけお金持ちか想像がつきません… オスタリーの近くにあるBoston Manor Houseもお買い上げになったそうです。

 

オスタリーハウスは、もはやグレシャムが住んでいた当時の面影を残していませんが、この厩は当時のままだそう。厩でこの規模なのだから、当時の栄華は推して知るべし。


しかし「驕れる者は久しからず」の法則で、この壮大なマナーハウスも
200年後には荒廃してしまい、1761年にそれを買ったのが、やはり銀行家のフランシス・チャイルド(Francis Child)。フランシスも、金細工を生業とする家から銀行業を発展させた大富豪の出生という点では、グレシャムと似ていますね。と言うか、いつの時代も、可処分所得の多いのは銀行家であるという事なのでしょうか?


フランシスは、当時最もファショナブルなインテリア・デザイナーだったロバート・アダム(Robert Adam)を登用して、屋敷の大改築を行います。インテリア界の寵児だったアダムをお屋敷全体のデザインに登用するのは、当時の王室でも予算的に無理だったそう。いかにチャイルドがお金持ちだったか推察できます。フランシスの没後(1763)からは、彼の兄のロバート・チャイルドが屋敷を相続し、アダムと共に改築を進めていきます。

 

ジョージアンの特徴であるジェンテイールな室内装飾のイメージの強いアダムですが、オスタリーハウスでは、彼の力強い建築デザインを実感できます。

 


ギリシャの神殿のようなペディメントを頂くネオクラシカルな柱を林立させた正面玄関は、従来の1階から階段を登った2階に設置されています。何故なら、当時のお屋敷はエントランスこそ1階にあるものの、通常、1階は湿気が多くて快適ではなく、キッチンや召使のホールとして使われていました。ゲストは、お屋敷に入った後、階段を登って、Piano Noblileと呼ばれる応接間や主寝室のある2階へ案内されるのが普通だったのです。ですから、どのお屋敷も、玄関から入ってすぐにある2階 に上がる階段はその家の格を誇示する重要なポイントだったのでしょう。しかし、屋敷内に建築する階段には物理的な限度があります。そこでアダムは、大胆に もその階段を屋内から屋外に取り出します。もう空間的な制約はありません。当時のイギリス貴族達は、イタリアに「グランドツアー」をするのが教養の一つ で、古代ギリシャ・リバイバル様式であるネオクラシカルに心酔していました。ここでアダムスは、まるでギリシャの神殿のようなファサードを作り上げて、そ こへ向かい階段を上る彼らの度肝を抜いたに違いありません。インテリア・デザイナーではなく、建築家としてのアダムスの度量を感じるファサードです。

 

建物の内部は、アダムらしい繊細なデザインの魅力に溢れています。階段を登ってすぐの部屋のデザインは、アダム風の真骨頂。



階段の意匠もアダムならではの美しさ。



ロングギャラリー。家具の一つ一つまでがアダムがこの屋敷の為にデザインしたものなので、全体のバランスが絶妙。アダムの理想とする世界を体感できます。



ドアノブ、室内の鏡に至るまで、全てが調和したアダム・ワールドに心酔。

 


字数を越えてしまったので、続きます。

台湾人悪友ママ友Hちゃんと、自社醸造のクラフトビールを飲ませてくれるパブ「BrewDog」でクラフトビールの利酒セミナーに参加。


それぞれの特徴や相性の良い肴についてのお話を聞きながら、
3種類のエールと2種類のラガーを飲み比べ。パイントグラスではなくスコッチのテイスティング用のようなグラスに注がれた3分の1パイントのビールを、ワインテイスティングみたいにクルクル回して香りを確かめ、匂いを嗅ぎ、味をチェック。


最初のビールは「
Punk IPA」。IPAはインディアン・ペール・エールの略。インドとビールってあまり結びつかないのですが、それもそのはず、IPAは、東インド会社が設立され、貿易の為にインドに渡ったイギリス人のために輸出されたビールの総称なのだそう。18世紀から輸出が開始され、1840年頃にはイギリス国内でも人気となったそうです。思うに、気温の高いインドでは、スイスイ飲める淡麗なビールが受けたのだろうな。そして、その呑口の良さがイギリス国内に逆輸入されたのだろうか。

Punk IPAはアルコール度数5.6%で、見た目は普通のビール(ラガー)のよう。でも、香りはとてもフルーティでラガーとは一線を画している。飲んでみると、ライチーのような甘酸っぱさを最初に感じ、飲み下すと口の中にビールの苦味が広がる。旨い!


全部で
3種類のエールと2種類のラガーを飲み比べましたが、一番美味しいと思えたのは、最初に飲んだこのビールでした。どのビールが一番美味しかった?と聞かれたので、一番最初のIPAと答えたら、これがウチのイチオシと担当者も嬉しそう。女は黙ってラガー党の私でしたが、エールのほうが香りや味が複雑でバラエティもあり奥深いのかも…と初めて思いました。これからはエール飲みになる?!


一杯飲むごとに、ピッチャーでサーブされた水を飲み、キュウリのピクルスを食べて味覚をデフォルト。


酒肴に関しては、エールにはソフトチーズ、ラガーにはハムなどのコールドミートが合うそうです。日本人的には、唐揚げに餃子といきたいところですが…(笑)。

最近はガストロパブ全盛で、パブなのかレストランなのか曖昧なお店が多い中、Brewdogでは、あくまでビールのツマミにこだわったフードを出しているそう。こういう潔さが好きだな~。

イタリアのパンチェッタ、ドイツのブラックフォレストハム、ロンドンはバーモンジー産のゴーダなど。この中で、山羊のソフトチーズが、全く臭みもなくて絶品でした。


何か質問は?と聞かれたので、常々疑問に思っていた、「日本では、ビールは泡のヘッドがある事が重要とされるのですが、イギリスのパブでは、泡が全くないように注がれるのは何故ですか?」を聞いてみた。


答えは「我々も、泡があった方がビールは美味しいと思っているのですが、イギリス人はケチなので、泡で誤魔化されているとおもってしまうのです。」だって。


BrewDogはイギリス国内に数店舗ある他、六本木にもバーがあるそうです。ここでは泡はあるのかなー?


もちろん、勉強熱心な私ですから、早速、ここから徒歩圏内にある、世界各地のクラフトビールが飲めるパブ
The Draft Houseに行き、閉店まで復習に勤しみました。


途中にあるマーケットが開かれる路上で、サーカスを彷彿させる荷台が可愛かった♪


かつて同じ会社で働いていた戦士・べらんめえ姉御が甥っ子さんを伴って来英。

毎年、里帰りの際は、都心の姉御のマンションに泊めてもらうのが恒例なので、久しぶりって感じでもないけど(笑)。

まずは来英を祝って、ホテルの近くのパブで乾杯

姉御が好きなオーストラリアのフォスターズは帽子を被って登場(笑)。


駅前から少し離れた、広々とした空間が嬉しいパブでした。


食事と1パイントで10ポンドというお得メニューがあったので…

甥っ子くんのバーガー。

姉御のソーセージ&マッシュ。

私は、フィッシュパイを希望したのだけど、売り切れとの事でソーセージ&マッシュに。
なかなか美味しいソーセージでしたぞ。


その後は、ホテルのもっと近くのパブへ移動。

おっしゃれーなパブが多いロンドンですが、こういう昔ながらのパブが現存するのが嬉しい限りです。

姉御達はサッカー観戦がメインだったので、サッカーを知らぬ無粋者の私が関与できる事態はなかったのですが、夕刻の便で日本に帰る姉御達と、ピーターシャムに出掛けました。

植物が大好きな姉御だったら、ここは絶対好きなはず…

晴れたけど寒い日だったので、中央のカフェスペースもガラガラ。

淋しく噴水の音だけが響いています。

温室内では、綺麗なヒヤシンスが開花していました。

クリスマスライトの残りなのかな?

帰り道のピーターシャムの教会のシルエット。

その後訪れた、ハムハウスの前の並木。

我が家での、イギリス名物、シェファーズパイのおもてなし。



気の置けない友達と酒を酌み交わすひと時は何よりですね♪










2015年の元旦は、今にも降り出しそうな曇天だったけれど、二日目の今日は快晴。お日様が出ると、どこかに出掛けくてウズウズなのは、晴れ間の少ないイギリス暮らしだから。

娘はお友達とお買い物に出掛けちゃったので、出不精のオットを「Hamのジャーマンベーカリーに行こう!」と誘惑。

アテンションプリーズなHちゃんに教えてもらったこのベーカリー、ずしりと重いドイツのパンが驚愕的に美味しい!教えてもらってから、週1~2で通っているかも。ドイツ人学校が近くにあるのでドイツ人も多く住んでいるらしく、店内で行き交うのは殆どがドイツ語!駐車場に停まっているのは、殆どがVW(笑)。並びにドイツ食料品店もあって、ロンドンのここだけドイツ濃度高し。

ベーカリーでパン、デリでブラックフォレストハムと酢漬けキャベツの瓶詰めを買った後、すぐ付近のTeddingtonのフットブリッジでテムズを渡って、ハイストリートの方へ。

お天気が良いから、フットブリッジも混んでるね~。

ボートで旅をする人が川を上るための施設であるロックがあるから、いつもボートが停泊していて、その向こうにある堰の水音がこだまして、いつ来てもホリデーの雰囲気。

抜けるような青空を映したテムズ川。気温は低いけど、冷たい風が爽やか。こういうお天気をイギリス人は「Crisp」と表現する。日本語では何だっけ?「刺すような冷たい風で気持ちがシャキッとなる」って感じ?日本語の季節の表現はとても豊かだけど、これは英語に軍配が上がるかな。

Teddingtonのハイストリートへ向かう途中にある、堂々とした教会の建物。ノルマン風。大きなステンドグラスがあるのが垣間見える。

どうやら教会ではなくアートセンターとして使われている模様。でも、あれ、何??

ぎゃー、巨大な蜘蛛のオブジェ!!!趣味悪すぎる~!

この教会の向かいには、現在も教会として使われている、ビクトリアンな建物もありました。端正で可愛い建物でした。

ハイストリートをぶらぶら。チェーン店が少なくて個人商店が多い通りなので歩いているだけで面白い。ちょこっと買い物をして、フットブリッジに戻る。

Teddington Lockの方へ。これがロックです。ボートが来ると、この扉を開けて水位を上げて通過します。

よく手入れされた芝生が広がり、ピクニックにも最適。そう言えば、しばらくココでピックニックしていないなー。暖かくなったら是非、来なくては!テムズの水音を聞きながら、行き交うボートを眺めて、楽しいピクニックになること間違いなし。

ロックの事務所の建物には、本日の日の出と日没、本日の満潮時の時刻が表示されているのがさすが。

現在15歳の娘。大学に行くようになると、家を離れるのだろうな。まだまだずっと先と思っていたけど、あと数年でその時が来る。


笑顔で背中を押してあげたいけど…


家族三人、いや、実は、私と娘の二人で過ごす時間が長くて当たり前すぎて、娘が家を離れる時を現実的に考える事ができない。今日のようにオットと二人で出掛けるのは滅多にない事だけど、いつかは毎日二人で過ごす日が来る。


(大丈夫かなー・汗)


ずっと一緒だと思っていたのに、「ずっと」なんて実は存在しないという、諸行無常を感じてしまった午後でした。

クリスマス前くらいから、いつも散歩か自転車で行くリッチモンド・パークの池に、まだ茶色い羽が残っている白鳥の子が一匹だけ居るのに気づいた。

普通、白鳥の子に近づくと、親鳥が恐ろしい勢いで威嚇してくるものだけど、この子はひとりぼっち。調べたら、白鳥は、子供が6ヶ月くらいになると、威嚇して独り立ちさせるらしい。という事は、この子は6ヶ月以上なのかな?更に読み進むと、白鳥は群れで生きる習性があるので、独り立ちした後は、最初に見つけた白鳥の群れに加わるのだそう。でも、この子はひとりぼっち…

ここ数日冷え込んだので、池の大半は凍ってしまい、僅かに残った凍り付いていない水面に佇んでいました。気になって、娘と一緒に、ほぼ毎日パンを投げ入れているのだけど、すぐに集まってくるカモやカモメに鳩に圧倒されている。大丈夫なのかなー?