nuko
暑い夏だった。




悪いクセで、テーブルに、つきっぱなしのヒジが痛い。

その街に住んでいる彼女に会っていた。
その店の冷房は、ガタガタガタと音をたて、
それでもなんとか冷気を吐き出していた。

天井に掛かった安っぽいシャンデリアがその風で、チラチラ揺れていた。

「ここはどう?」と訊かれ、初めは彼女の質問の意味が判らなかったが、
この街の事だと思い、昨日来たばかりなのに、好きだと答えた。

僕らは、遠距離恋愛だった。
いつもは彼女が僕の街に、
もしくは全然違う街で待ち合わせしていたから、
僕がこの街を訪れるのは、初めてだった。
まだ、たった一日しかその街を歩いていなかったけれど、
好きだなぁと思ったのは本当だった。
そういうことって、ごく稀にある。

よく知りもしない場所や、人。
理由を説明しろ、といわれると、言葉に詰まるのだが、
何かがピッタリきた、と言うしかない。
一目ボレと言うのもなんだか照れ臭いが、不思議な感覚だと思う。

「なんちゅうかさ、何もない贅沢、何もしない満足って感じかな?」

「ふうん、でも、そぅいうのってナンかイイよね!」

もぅどれくらいこの店にいるのか?
話している時間より話していない時間の方が長かった。
彼女は店の外を眺めていた。

ワイシャツが汗だくのサラリーマン、
スカートからのぞく日焼けした脚の高校生、
マジックミラーのようなサングラス、
裾を引きずって歩くボロボロのジーンズ、
半ズボンで走り回る子供。

そして僕は、そんな彼女の横顔を見てる。

「ん?」

ニコニコと笑う顔を見ると、何故だか僕は目を伏せてしまう。
「あのね」
午後5時20分という、ものすごく中途半端な時間。
カフェの客は途絶えて、店員がヒマそうにしている。

彼女は突然、話し始める。
「あのね、あのね。」
顔は少し笑っているけど、たぶん真剣に話している。

「あのね。あれ、風船がなんとか、って歌、知ってる?」

「ん?え?なにそれ、知らない。」

「あのさ、二人の間に風船があってね、
それを割れない様にって、
それとあれ、飛んで行かないようにって、歌!」

僕は目の前の彼女との間に風船を思い描いた。
確か、聴いた事があるはずだ。
でももう、歌詞は思い出せないし、
音程は気の毒なほどふわふわしている。
確か少し難しいメロディーだったと思う。

夕方の街はまだ暑くて、埃っぽくて、やっぱり暑い。
街全体が濃いオレンジ色のような感じ。
彼女は氷の溶けたカフェラテをストローでぐるぐるぐるぐる
かき回し続けている。

その後も、僕らはどーでもいい話をボツボツ話した。






彼女が駅まで一緒に歩いてくれたが、
何故だか僕は、少し一人になりたくなって、
「明日、急な仕事があるから、また!」と言った。
こんな時、時々、ウソをついてしまうことがある。

「じゃあ!」と、彼女は小さな白い手をピラピラと振った。

帰りの汽車の中で、彼女と一生ここに居られればなぁ、と思うくらい、
その街が好きだと思った。

そして、あの風船の歌。
二人の間にあった風船は、
割れる事もなく、
飛んでいく事もなく、
ずっとそこにあったのだろぅかと考えた。

たぶん最後は、ハッピーエンドなんだろうな!

歌や、映画のラストはハッピーエンドが多いからな。

そのあとの物語が知りたいと思う時もあるけれど、
やっぱり知らない方がいいと思う。

たとえ何もなくても、
何もしなくても
現実はリアルに続いていくのだから。





それから暫くして、彼女の訃報を知った。




事故で、即死だった。



pekori

充分な時が流れたはずだった…

稲森直也と、小林節菜、久志優作の三人は幼なじみであった。
互いが互いに好意を抱いており、いい関係を保っていた。

ひとつの事故が、そのバランスを崩した。

節菜が呟く

「花火は嫌い…
消えた後の虚しさが、胸に痛いから…
失う事の寂しさに、慣れていないから…」

「本当の美しいものを、知っているか?」

直也は、尋ねる…!

「薄命だからこそ…死が訪れるからこそ…
そこに生きる価値がある!
刹那的な快楽の追求こそが…真の美徳なのだ!」

「何も残らないとしても?
やり残した事や…伝えきれてない事はないの…
未練は…無いの?」

「形は無くとも…残るものはある!
この想いこそが…生きてきた証し!」

「やがては薄れて消え去ってゆく…
そして誰の記憶からも、完全に消去されるわ…」

「…それこそが、究極の『美』無への回帰…」

「解からない…」

「それで良いんだ!答えは無い!」


本当の孤独を知る…
漆黒の暗闇を視る…
無音の恐怖を聴く…

存在の否定。
完全な孤立。

喪失感

虚無感

絶望

失望



暗い闇に堕ちた!
心の中だった!
深く暗い…無意識という名の…深海

戦う敵がいなかった…
自分と闘おうにも、存在が無かった…
そこに在るのは…
無という概念

誰かを信じる前に、自分が信じられない…

自分を欺く。

重要なのは、自分が今、どの領域にいるのかだ。

心を海に例えるのならば…

光射する表面部分が、直也の意識だ。
光のあたらぬ闇の世界…それが、無意識。

そんな無意識の中にも生きるモノがいる。
むしろ、闇の中にこそ多くの、未知なるモノが蠢いている。

意識内の生物を、【理性】とするならば…
無意識内には、【本能】が生息する。

ひとは、自分が今どの領域にいるかで、世界が違って視える。

ひとつだけ確実に言える事は、
直也の状態は今、【心の深海】に在るという事。


久志が、死んだ。


悲しい…
しかし、無意識の闇の中から…悪魔がささやく…

『良かったじゃないか!』

直也は、驚嘆する!

その声は、直也自身のものだった。
悪魔などではなく、自分の本能。

「何を言っているんだ?」

刹那、理性が働き、罪悪感を生む。
しかし、それは届く事はない…

まるで、深海には光が射し込まぬかのように。

『これで、節菜は…自分のモノだと…』

「違う!久志の死を悔やみ涙した。真実の涙だ!」

『真実は、もっと単純だ。
今涙を流している自分は、他者の目にどぅ映っているのだろぅか?
美しい友情。さぞかし、俺の姿は美しく映っていることだろうと…』

「嘘だ!」

光と影は、表裏一体。
光在る処には闇もまた在りし。

その光が、眩しく暖かなものであればあるほど…
生まれ出でる闇は、重く冷たいものになる。

「嘘だ!嘘だ、嘘だ…偽りだ!
悲しみを紛らわす為の、虚構の感情に過ぎない。」

『では、その感情の産みの親が、自分自身であるという事実からは、
目を背けるのか?』

「自分を責めることが、悲しみから逃れる、唯一の手段…」

『現に今もこうやって、罪の意識に苛まれている自分が、
さぞかし美しく見られているだろうと思う自身を否定することさえ
できずにいるのではないのか?』

「僕は…何故、ここにいるんだ?」

『悲しみの【痛み】から逃れ、安らぎを求めたから…』

「心地良いから?」

『心を偽らず本来の姿で居れるから…』


直也は、心を閉ざした。


rabu

「もぅ…生きていたくない」





何故?





「辛いから…」

全力で走るからだ…

フルマラソン、全速力で駆け抜ける馬鹿いるか?

疲れたら、歩けばいい…



「もぅ、一歩も歩けない…」

立ち止まったっていい…



「もぅ、疲れたの…」

腰を降ろして休めばいい…

生きる事が辛く苦しいなんて…誰もが知っている。

なのに、心を鍛える前に走り出すのか?

何の目的も、ゴールも見えないまま、走り出すのか?



「何故?生きるの?」

例えば大切な人からの一言だけで
その日…いち日がハッピーだったり、

なんでもない事が忘れられなかったり、
何でもしてあげたいなって思ったり、

すっげー逢いたくなったり、
何でも打ち明けたくなったり、

守りたいって思ったりとか…
つまりそぅいう気持ちの積み重ねが、

生きる事に意味を見いだす。



「私は、独り…誰もいらない…」

今までひとりで、見た…聞いた事、
その喜びや悲しみさえも…

ふたりで、もしくは…
仲間と共有できれば…

世界は、きっと別のものに感じられるはず…



「見つけられるかな…?」

下を向いて探しても虹は見つからない。

生きるとは何か?


私に誰も問わなければ、私はその答えを知っている。



しかし誰かに問われ説明しようとすると、



私は生きるとは何かを知らない…


nakisou

イタチは声を出さずに泣いた

それはかのじょの癖でありささやかな防衛手段でもあった
イタチの右肩には火傷の痕があったが
それは母親が火を消した直後のガスコンロに押し付けた為に出来たモノであったし

身体の随所にある痣は折檻によるものであった

イタチ…中谷愛子は決して恵まれた家庭環境で
育てられたとはいえなかった
父親は事故でなくなっており実の母キミ江の手によって育てられた

一九八四年十二月
蔵六は近所の木工所で工員として働いていたが残業中ひとりで機械を
操作していた為にボタン操作を誤り直径2mもの鋸(のこぎり)に
巻き込まれてまっぷたつになってしまった

ちょうど夜食を届けに来ていたキミ江の眼前で起きた惨劇であったが
当時三歳のイタチは
肉片と化した父親に縋りつき慟哭するキミ江の眼中に
はっきりとした狂気を感じ取っていた

しかしキミ江はもともと寡黙な女であった為に
毅然とした態度を演じる事が出来た
その代わり彼女の心に鬱積したストレスの捌け口はイタチであった

決してキミ江はイタチを我が子を愛していない訳ではなかった
ただ余りにも強い哀惜の念が悪疫の様に彼女を苛み
内なる狂気を引き起こす誘引となっていた

キミ江はイタチを折檻した後は必ずといっていいほど泣いた

イタチを抱きしめ愚痴をこぼす
そしていつしか眠りにつく
その横でイタチも丸くなって眠る

しかし布団で寝れる訳ではない
黴臭い畳の上で小さく震えながら眠るのだ

それはまだマシだった
母親の機嫌が悪い時
イタチは氷の様に冷たい台所の板の間に追いやられた

現に今もイタチはそこに正座して
アルミの椀に盛られたエサを食っていた
手を使わずに顔を椀に押し付ける様にして食っているのは
母親の命令であったし何より
エサを食う時のいつもの儀式であった

別に母親が監視している訳ではなかったが
服従する事でそれ以上の酷い仕置きを受けない様にという
幼い少女の自己防衛でもあった

折檻の痕のどす黒く変色した痣がじくじく疼いたが
餌を食いながらイタチはめったに感じる事の無い感情が
湧き上がっている事に驚嘆していた

しかし弱冠五歳のイタチに
それが『幸福』だと理解するのは不可能であった







…三日ぶりのエサであった…

汚れていた

バスのクラクション

排気ガス

サイレン

街のノイズが、俺の生活を蝕んでいた

いつもの事だが…疑問に思う?

『なぜ、生きてる?』


zonu




答えはいつも、決まっていた

『死ねないから…』

そう、死ねないだけ…ただそれだけの理由で、俺は生きていた





いつもの雑踏




いつもの顔ぶれ




繰り返しの日常

うんざりだった…逃げ出したかった…でも何処に?