お久しぶりです。
久しぶりすぎて、もう更新もやめようかな、と少しだけ思っていました。
でも、書くことから離れられなくて
頑張ってブログ再開です。
去年の12月から何が起きていたかというと…
このブログを読んでくださっている方はお察しかと思いますが
父が亡くなりまして。
年末の記事には
「年が越せるか越せないか」
みたいに書いてあって、
私もお医者さんからそう聞いていたのですが
父、
今年の2月末まで頑張ってくれました。
2024年2月26日早朝
妻(私の母)と娘二人(私と妹)に見守られながら
自宅のベッドで息を引き取りました。
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26日は月曜日で、ちょうど3連休明けの日でした。
連休だったので東京に住む妹もちょうど帰省しておりました。
私も24日が休みで、その流れで、
25・26日お休みをとっていました。
といっても、ほんの一週間前まではそんなに予兆もなく、
ちょっと息が苦しそうになってきたな…と感じる程度で
妹も「とりあえず来週の週末帰るわ~」くらいのノリでした。
ですが19日ごろから余裕がないような感じに感じられ
呼吸が不規則になっていき
ほぼ苦しそうにしているだけ、の状況になってきました。
20日には『ご家族の方へ』と書かれた、
”お別れ”が近づいた家族に向けたしおりを
訪問看護師さんから渡されました。
妹が帰ってくるまで「持ちこたえて!」と
毎日祈るような気持ちでした。
妹も帰省してみてびっくりな状況だったことでしょう。
25日、朝の訪問看護師さんが来られて
父の看護が終わった後に家族だけに聞こえるように言いました。
「おそらく、もってあと数時間です。」と。
とりあえず看護師さんには
「近くにいてたくさん話しかけてあげてください」
と言われたので、仕事は休ませてもらい
父の近くにずっといました。
25日から26日にかけ、
呼吸の不規則さが加速していき
26日の早朝、
呼吸の回数が減り、間隔が空き、
息が止まりました。
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それから、私たち家族は
悲しむ間もなく、
葬儀やら知人への連絡やら…
葬儀が終われば、
ゆかりの人へのお礼・おもてなし・香典返しの準備。
役所銀行の手続き、事務的な手続き…
四十九日に向けてのお寺関係と
(訳あって)お仏壇の新調…
そして、亡くなったのが父ということもあり
相続関係でのゴタゴタ…etc
で、忙しくしております。
そうそう、
父は、12月の脳腫瘍での入院後、
退院してから亡くなるまで
結局自宅で看ておりました。
なので、訪問の医師や看護師さんに来てもらいつつも
母と私とで昼夜関係なく看護をしておりました。
(私は日中は仕事のことも多かったですが)
おむつを替えたり、食事を考えたり、
体を拭いたり、こまめに話しかけり、
そばにいないと寂しがられたり、
深夜に大声で呼ばれたり。
毎日眠る時間もあまりとれないような生活でしたね。
…今となれば少し懐かしく愛しくもあるのですが。
父は脳腫瘍への放射線治療の後、
すぐには回復しませんでしたが
1月中旬には少し喋るようになり
支離滅裂ではありつつも
単語と使い慣れている定型文らしき言葉で
コミュニケーションをとろうとしてくれていました。
1月末になるにつれ、
自我がはっきりしてきたのですが
はっきりする頭に反して
動かない身体と無治療状態のお腹の腫瘍の痛みで
我儘をいうようになってきました。
我儘というか、
駄々をこねる子供のような感じ!でした。
元々父は冷静で優しい人なので、
本人は辛かったかもしれませんが
私は母は、
ますます父への愛しさが増すような時間でした。
2月に入ってからは
父は「痛い痛い」と言うことが増え
医療用モルヒネを内服して過ごすようになりました。
だんだんモルヒネの量も増え、
これからどうなるのか・どうしていけばいいのか、
と思う頃に
父の様子が変わり(先に挙げた19日頃)
呼吸が変わり、
”その日”をむかえました。
亡くなりゆく人の、
亡くなりゆく愛しい人との、
最後の時間とはどういうものなのか。
これを身をもって知りました。
長くなってしまいましたが、
この3か月の出来事でした。
悲しみはもちろんあるのですが、
正直なところ
まだ実感がない、というのが本音です。
いわゆる「何もできない程落ち込む」ような時間は
今のところ、私にも母にも訪れていません。
とにかく四十九日関係や相続関係での
ばたばたが続いております。
・・・とはいえ少しずつ
私らしい時間を取り戻していかねば、と。
父が私に託したものを
これからも大事にしていけるように
前を向いていくのです。