emotion
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優しく 無情に


“楽天”という場所は、自分の書いた日記を登録したメルアドへと、ご丁寧に転送してくれるシステムだったらしい。
古いメールを整理していたら、昔 楽天で書いていた頃の自分の日記と対峙させられることとなった。

過去の自分に申し訳ないが、鼻で笑った。
そして笑いながら泣く。その懐かしさに無邪気さに――――。

まさか“此処”に辿り着くとは、数年前の私には想像もできなかったことだろう。

淡々と数える。得たものと失ったものの数。大切なことは、数ではないのだろうけれど。多分。


優しく。優しく優しく優しく。私にとりできる限り優しく彼是を考えることが今の自分にとり良いことなのか
無情に無情に無情に、考え尽くすことが 本当は為になるのかであーだこーだ考えた末、
“何も考えない”ことが最良の策であるという結論に辿り着く。

見た夢を覚えていないほどに、くたくたな日常をひたすらに送る。
それがきっと、今の私にとり最良の策なのだ。


白木蓮の蕾が花開きそうなほどの大きさで、今が三月なのか四月なのか分からなくさせるほどの陽気の中、桜の枝を見上げる。


できるなら 春が 春が春が 桜舞い降る春が、私の知らない間に、私の眠っている間に、過ぎ去ってくれればいいと思う 今日。

私はこの春、何処で どんな気持ちで 薄桃色を仰ぐだろう。



春が好き。大好き。



大好きで大嫌いだ。














 

かいぐり


昨日は本当に春みたいな一日だった。四月上旬の陽気だったというから、桜も咲きだしそうな勢いだ。つい先日まで着ていた分厚いコートの代わりにジャケットを羽織り、いくつかの用事を済ませる為に街へ出た。


久しぶりに懐かしい作業が続いている。もうすっかり忘れ去っていた感覚ばかり。もし本当にそれらに触れる日常が4月より始まるとすれば、大変なことも多いだろうけれど、身震いするような感覚にも襲われたりするのかもしれない。平凡な平凡な、きっとそれを幸せと本当は呼ぶのだろうけれど、私にとっては残念ながらそうではない、この日常からの脱皮。環境を変えることを大の苦手とする私が、環境を変えたいと切実に望んだ。皮肉にも、勾玉を失うことで。



この頃、あぁそう言えばこれも言われた、あれも言われた、ずっとずっと言われ続けていたことだったという言葉を折にふれ思い出す。そして思い出すたびに、その時にきちんと踏み出せていたとすれば、今の私の状況はまるで違ったものになっていたのだろうかと思い、その数秒後にそれをそっと打ち消す。“もしも”は、何処まで考えても“もしも”でしかないのだと。此処にあるのは、事実だけ。その事実に添う私の感情だけ。



まだまだその感情のコントロールに手を拱くことも多いけれど。動揺しすぎて動悸が凄くて、これがもっと強烈になればパニック症候群とやらなのか?と冷静に分析している時点でもはやそれとはほど遠い症状に襲われたりもしたけれど。


でも、視点をほんの少し動かしてやれば、私も君も他の多くの人も、みんなみんな幸せな色に染まる。桜みたいな、仄かな仄かな薄桃色。



きっと、手に入れたのは「自由」なのだ。その事実はきっと私に君に未来に明るい。その明るさを前に目を細め、宿る寂寥に心が震える。少し寂しいということなのだろう。ごまかす必要はないのだ。寂しさを今ちゃんと抱きしめなければ、この先心から思えない。幸せであれ、と。うんとうんと、幸せであれ、と ――――。




寂しい。私は今、少し寂しい。それでもこの寂しさをきゅっと抱きしめて、ちゃんといい子いい子してあげながら、自分の足で一歩一歩確実に歩いていこうと思っている。








 

三寒四温

DSの通信にハマっている次男坊は、仲良しのお友達と遊ぶのにDS持参で出ていく。

けれど今日は出て行った30分後に帰ってきて「公園で遊ぶからDS置きにきたぁ~。」と玄関先で叫んだ。


いい天気だから。本当に春みたいに。

子供の身体は正直で、こんな陽気にとても室内でゲームと向き合えないらしい。


にこにこ顔で玄関の扉を閉め、数分後、公園から響いてくる我が子の声に思わず微笑む。


沢山遊んで帰っておいで。今日は君の好きなピザを取ろう。

お母さんは掃除のし過ぎでちょっとかなり草臥れたからなみだ




週間天気予報では、この陽気も長くは続かず、また寒気が流れ込んでくるようだ。三寒四温。そうして少しずつ確実に春へと近づいていく。





昨日ふと、この町を出たいと思った。これほどに長く執着している町を。分かってる。それはきっと、此処からずっと発信し続けた季節の移り変わりを、彼是を、今年はもう見たくはないからなのだろう。


昨日に繋がる全てのものを断ち切りたいということなのだと思う。はやく消化しないとね。消化しないままに切り捨てたものは、必ずやシコリになるから。










3

これは長男が大切に育てている仔犬。現在この犬は、我が家よりも豪邸に住んでいたりする。






 


















悲しいほどお天気


昨日、賞状と記念品が届いた。賞金だけはやたらと早く届いていたのだが、残りはちょっと間を置いてから届いたのだ。随分立派な賞状でちゃんと額に入ってて、自分の作品も達筆な字で添えられていたのでちょっとびっくりした。珈琲を飲みながら暫しぼんやりと眺め、もっと頑張らないとなぁと思った。



そう言いながら多分今は、バランスを完全に崩してしまっているらしく、なんとか踏ん張ってきた分の反動がどうやらまともに来ているらしい。今したいことは、ひたすらにのんびりしたい。それなのにまるで逆の生活を送っている。大掃除並にせっせと掃除をしてみたりとか。おかげで家の中が綺麗なわけだけど。



天気がいい。天気がすこぶるいい。眩しくて見上げているだけで泣きたくなるような空だ。

悲しいほどお天気なんてタイトルの曲が確かあったな。ユーミンだっけ。


休みたい。たぶん自分にとり必要なのはそれだ。心の底からちょっともう限界なのかもしれない。

もういいかな?いいよね、と誰にともなく尋ねたくなる。




さて、今日はキッチン周りの大掃除をしよう。なんにも考えずにひたすら黙々と。












鶴橋と言えば


およそ1年ぶりに鶴橋に焼肉を食べに行った。相変わらず思い立ったが吉日で、息子2人を連れ、それだけじゃなんとなく寂しいので、母を誘って。


昨年鶴橋で焼肉を食べた時、ネットで調べたある店に予約を入れ出向いたのだが、駅の階段を下りているところで、焼肉に心躍らせている私に向って、見知らぬおじさんが「鶴橋言うたら鶴一やろ」と突然言ってきたのだ。

これから食べに行くのは別の店であるというのに、鶴橋と言えば鶴一などと言われてしまっては心揺れ動くというもの。しかし予約を入れてしまっている以上、ドタキャンはあまりに失礼であろうと、今回はおとなしく予約店へ行くことにし、また機会があれば次はその鶴一とやらへ行ってみようと言っていた、その機会が1年後再び巡ってきたのである。


そんなわけで今回はその鶴橋言うたら鶴一な焼き肉店へ迷わず直行したのだが。したのだが。したのだが。


味覚というものは人それぞれであるので、鶴橋言うたら鶴一なあの日のおじさんの言葉に偽りがあったのだとは申しはしない。ただ、人というものは最初からめっちゃ美味いでと言われると、そらもうもんのすごく美味なる味を想像してしまう生き物なのかもしれない。ものすんごく期待をして食べてしまったので、私の中では最初から最後まで疑問符が飛んでいて、しかし美味しいねと食べている息子や母を前にそんなことを申し上げるのもどうかと思ったので、あえて口にせずにいたのだが、会計を済ませ再び駅までの道を歩いておったところ、昨年行った店前を通り過ぎるところでついに我慢できずに口を開いてしまった。



「・・・こっちの店のほうが、美味しくなかった?」




すると昨年不参加の次男坊を除く皆が、一斉にうんうんと頷くではないか。皆、実はそう思いつづけながら鶴一で焼肉を食べていたらしいのだが、此処でそれを言っちゃおしまいだろうとぐっと我慢をしていたようなのだ。本当は志ひとつで肉を食べていた我ら。私だけではなかったのだ。


案外鶴橋にある、他の焼き肉店を網羅すれば、鶴一がいかに美味なる焼き肉店であるかどうかが明白となるのであろうか?とすれば、私が去年たまたまネットで見つけて予約を入れた焼き肉店は、実に掘り出し店であったということなのだろうか?あの店の冷麺も美味かった。石焼きビビンバもとても美味かった。しかし強いて言えば年末昂揚気分で今日よりアルコールが入っていたため、満腹中枢が破壊され、味覚が若干音痴になっていたのでは?という点も否めない。


まぁ、何れにせよ、贅沢な話だな、これは。