5月13日
昨日、LINEのやりとりを消した。
昨日は日曜日。土日は相手から一切音沙汰なかった。
相手は平日仕事で忙しく、心にも体力的にも余裕がなく連絡してこない。
大体土曜日、たまに日曜昼間に連絡がくる。
今回はめずらしく金曜夜にやりとりしていた。
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「週1」ノルマを達成したということかな?
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やりとりの〆に、重めの内容を送ったからかな?
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相手の気持ちを落とすような内容を送ったからかな?
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機嫌損ねたかな?
そろそろ私のネガキャンに堪忍袋の緒が切れて、恋から目が醒めたのだろう。
しばらくは、もしくはもう二度と向こうから連絡してこないだろう、そう思った。
しかし、まさかの今日、メッセージを受信した。
涙が出てきた。嬉しかった。
終わりにしようと決意したのに、メッセージがくると愛おしくなって気持ちを切り替えられなくなるから、困るんだけど。
そんなことを思いながら、でも何かが込み上げてきて、泣いた。
なんの涙なんだろう?何に安心したんだろう?過去の何を埋めているんだろう?
こういうこと、前にもあった。
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あれは海外の語学学校に通っているとき、一緒に住んでいた家の家主が学校まで送り迎えをしてくれていた。
たまたま勤務先が学校の近くで、たまたま会社に行く時間と帰る時間が学校の授業時間とあまり変わりなく、送ってもいいわよと言われ甘えさせてもらった。
毎日帰りに迎えにきてくれて、それだけでありがたいのに、少しでも遅れたら「残業で、待たせてごめんね」と言われた。遅くなったと言っても15分とか30分。
海外の人にとって、特に車社会の田舎の人たちにとっては、子どもを学校に送り迎えするのは当たり前のことかもしれない。
でも、私にとっては当たり前のことじゃなかった。
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小さい頃、家から幼稚園の迎えのバス停まで小さい子どもが歩いて30分以上、毎日姉と歩いて通っていた。
帰りも、他の子たちは親がバス停まで迎えにきているのに、私と姉は、子どもたちだけでいつも歩いて帰っていた。
「えらいわね」「すごいわね」「しっかりしてるわね」
そう言われて鼻高々になるときもあったけど、ほとんどは羨ましい気持ちになることが多かった。
いいなぁと思ったところで現実が変わるわけでも誰かが迎えに来てくれるわけでもない。自分の足で歩いて帰るしかない。
あきらめの気持ちとかでなく、ただ現実を受け止めていた。あるものはある、ないものはない。
歩いて帰るのは決して苦ではなかった。
子どもだから、楽しみながら、遊びながら帰っていた。
バスを降りて他の親子を見る時だけ、そういう気持ちになった。
学校に上がって、日曜参観の日も、授業が終われば親が待っていて一緒に帰る子が結構いた。
「親と帰るのやだよぉ」というノロケを聞き、「今日はごめん」といつも一緒に帰ってる友だちの断りを受け、そして少し羨ましい気持ちを感じながら、自立した子を装いながら歩いて帰っていた。
今思うと、自立した子ではなく、自立させられた子だったのかもしれない。
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語学学校の授業が終わり、他の同学生たちのホームステイ先が次々と車で迎えに来る*。
そして、みんな迎えの車に次々乗って帰っていく。
彼ら、彼女たちに「じゃあね、また明日」と手を振りながら、私もあとで迎えが来るんだ~!そう思えるだけでとても嬉しかった。
(*ホームステイの場合は学校と提携しているので送迎が含まれている。私の場合は自分で部屋を借りたので、通常であればバスや徒歩で自力で通学する。ちなみに田舎の学校だったので、私以外はみんな学校寮かホームステイだった。)
得意げに、お先にどうぞと見送れる自分が、嬉しかった。安心していた。
そして、涙が込み上げた。
あぁ、私は小さいころ、親に迎えに来て欲しかったんだな。今、その穴を埋めてもらっているんだな。
30過ぎたオンナが、4〜5歳の未就学児が抱くような願望を満たされて泣いた。
家主の人が女性で、年上で、私を育てていたころの働く母と重ねやすかったのかもしれない。
私の見た目が海外視点では20代前半だったので、私のことをまだ若い子だと勘違いして母親のように気にかけてくれていたのもあると思う。
あの時はわかりやすく、いつのどんな感情が昇華されているのかがわかった。
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今回はなんだろう。
相手は男性だから、父親かもしれないし、性別関係なく親や人からの何かかもしれない。
離れていったと思ったのに、もう関係は切れたと思ったのに、連絡をくれた。しかも予想より早く。
この嬉しい気持ち、なんだかほっとした気持ち、自分の中を探してもいつのどんな感情の埋め合わせかわからない。
でも、理由はわからなくても大丈夫。
心のどの穴かわからなくても、満たされた、満たされている、それを感じることが大事。感じている感覚を認識するが大事。
もしかしたら今はまだ埋めている途中かもしれない。埋めきれてないから、どの穴かわからないだけかもしれない。
いつか満たされて、平坦になったら、あ、この凹みだったのかと気づくかもしれない。
あせらなくていい。わからなくてもいい。
今感じたことを感じていれば。
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【あとがき】
愛着障害不安型の行動特徴の一つに「試し行動」があります。
これでも愛せるのか、と相手の忍耐力と受容力と愛を確かめる行為なのですが。
私が最後に送ったメールは、試し行動だったのか?
いや、そんな自覚はない。ただ思ったこと、思っていることを伝えているだけ。伝えるべき内容だったかどうかは別として。
(相手の反応に)ほっとした気持ち、嬉しい気持ちの後に、じゃあこれはどうだ、これでもか、と次々難題を繰り出したくなるのは試し行動。
その衝動がなくはない。でもしない。意味がないとわかってるから。
試し行動は相手が根を上げるまでやり続けることだから。
愛情を求めているはずなのに、なぜか壊すことが目的となってしまう。
そして相手が怒ったら、離れたら、ほらやっぱり、危うく信頼して傷つくところだったと自分に言い聞かせる。
なぜなら、「どうせ愛されない」「自己中の愛なんでしょ」と固く信じているから。
心の奥底で、本人も気づかない深い記憶の中で。
思考はエネルギー。
「愛される」ことが信じられないのであれば、「愛されてないかもしれないけど、愛されてるかもしれない。」と、まずは0%を50%にしてみるといいかもしれません。