ikode234のブログ -2ページ目

ikode234のブログ

ブログの説明を入力します。

 三 小田城と太田三楽


筑波山は山しげ山しげけれど
 思ひ入るにはさはらざりけり


 げに、古より樹木しげかりけむ。筑波山の高さは僅に三千尺ぐらゐなれど、関東平野の中に孤立せるを以て、関東にては、何処からも見ゆ。随(したが)つて、筑波山上よりは、関東を残らず見渡すを得べし。関城趾方面よりは、男体のみが見えて、女体は見えず。右に豊凶山をひかへ、左に葦穂、加波、雨引の三山をひかへて、勢、秀抜也。これ側面観なるが、正面より、即ち山麓の臼井村より見れば、男体女体の双峯天を刺して満山鬱蒼たり。春日山や、嵐山や、東山や、近畿には鬱蒼たる山多けれども、関東の山には樹木少なし。唯々筑波山のみは樹木鬱蒼として、関東の単調を破る。
 午後一時、筑波町を発足して帰路に就く。北条まで歩きて馬車に乗る。小田村の路傍、「これより南三町小田城趾」としるせる木標の立てるを見る。これ当年北畠親房が一時たてこもりたる処也。然るに城主小田治久は勢を見て北朝に附しぬ。瓜のつるに茄子はならず。祖先が祖先なれば、子孫も子孫、この小田氏は戦国時代になりても、勢を見て北条氏に附しぬ。されど、本城は太田三楽に取られたり。
 太田三楽は、太田道灌の曾孫也。智仁勇を兼ねたる名将として鳴りとゞろきたる英雄なるが、其一生は失敗の歴史也。豊臣秀吉小田原征伐の際、徳川家康に謂つて曰く、関東に二つの不思議あり。卿之を知れりや。曰く、其一は太田三楽ならむ。曰く、然り。曰く、今一つは思ひうかばず。曰く、矢張り太田三楽也。我等の如き者でも、天下を取れるに、三楽の如き人が一国も取り得ざるが不思議なる也と。三楽は非凡の英雄也。故に秀吉も家康も期せずして、これを関東の一不思議としたり。宇佐美定行も言へり、当代、主君と仰ぐに足るべき人は、わが謙信公の外に唯々三楽あるのみと。斯かる英雄が一国も取り得ざるは、不思議と云へば不思議なれども、実は不思議に非ず。三楽が若(も)しも小田氏の如く勢に附したらば、失敗はせざりしならむ。三楽は骨(こうこつ)を有す。成敗以外に、巍然(ぎぜん)として男子の意気地を貫きたり。成敗を以て英雄を論ずべからずとは、三楽の事也。滅亡に瀕せる上杉氏を助けて、旭日の勢ある北条氏に抗したり。安房の里見義弘と結びたるも、鴻の台の一戦に大敗したり。越後の上杉謙信を頼みたるも、謙信は関東に全力を注ぐ能はざりき。失敗又失敗、本城の岩槻さへ取られ、はる/″\常陸まで落ちゆきて佐竹義宣をたより、片野に老後の身を寄せたり。然れども、雄志毫(ごう)も衰へず。老武者の英姿は、いつも筑波山下に躍動したりき。
 父の小田天庵、藤沢に居り、子の守治、小田に居る。三楽は程近き片野に在りて日夜工夫をこらせど、如何せむ。敵の城はかたく、我兵は少なし。唯々小田天庵は毎年大晦日に、年忘とて連歌の会を催し、酒宴暁に至るを定例とせり。三楽之を聞き知りて、乗ずべきは此時なりと勇みぬ。されど、手兵のみにては不足也。茲(ここ)に真壁掃部助と言ひあはせて、一の窮策を案じ出だせり。小田の重臣に内応するものあり、乗ずべしとて、佐竹方や多賀方の豪傑どもを招き、その内応の手紙さへ示したるに、豪傑ども、三楽に加勢することを諾す。然るに愈々(いよいよ)小田城に押しよせて見れば、一向内応の模様なし。諸将こは如何にと怪しめば、実は内応ありたるに非ず。手紙も、にせ手紙也。唯々連歌の酒宴ある夜なれば、内応にもまして都合よし。願はくは一臂(いっぴ)の力をかされよといふ。これも一理あり。今更ぐず/\言ひても仕方なしとて、一呼して城を抜きたり。その後、天庵は一度小田城をとりかへしたるが、再び三楽に取られたり。かゝる程に、大敵外よりあらはれ、北条氏は秀吉の為に亡ぼされたり。かくて、三楽の宿志は、思ひがけずも、秀吉によりて達せられたるが、三楽其人は、あくまでも不運の英雄なりき。北条氏滅亡の後、間もなく病死して、英魂むなしく筑波山下に眠る。」


結婚相談