今日はなんだか呆然としている。
凄まじい悲しみに襲われないかわりに、感情がなりを潜めているようだ。
今やイヤホンは私のお守りとなった。
悲しみや痛みを引き起こす元となる音源から私を守ってくれている。
外の音の聞こえない、膜の張った世界だ。
わたしはひどく安心する一方で、これでは鳥の歌も風の音も、川のせせらぎも、美しい音楽も耳に届かないなと、ふと思った。
かのBrene Brown博士が、
「私達は鈍らせる感情の選択ができない。悲しみや痛みから逃れようと感覚を鈍らせようとすると、同時に喜びの方も感じ取れなくなってしまう」
と説明していたが、それを物理化したのがこれか、と思った。
苦みを感じないよう味覚を手放せば、甘みやうまみも味わえない。
悲しいものをみないよう視覚をなくせば、咲き乱れる花や空の美しさも目に留まらなくなる。
痛みを感じないように触覚をなくしたなら、手触りの良さや心地よさ、人の手の温かさを感じ取れなくなる。
選択的に感覚を手放せないというのは、残念なことだと思う。
ただ。私達が苦みや痛みを感じるのは、毒や危険物から身を守るためだ。この感覚を無くせば、私達は自らを守ることが出来なくなるだろう。
悲しみも、それが自分にとって大切なものであったということを教えてくれるものであり、その痛みを感じ取ることができなければ、私たちは自分にとって大切なものを、いとも簡単に失ってしまうかもしれない。
悲しみは教えてくれるのだ。何が、大切であったのかを。何を、大切にしたかったのかを。
そこから私たちは、次に愛おしいものが現れたときには、決してその気持ちを裏切ってしまわないよう、精一杯、心をこめられるようになるのだと思う。