障害児を育てていて、
障害者の支援をすることもあって、
障害者、障害、支援、等々
人に教えたりすることもあります。
通訳をする立場上、
日本語をしっかり理解したいし
正しく使いたいと思っています。
考えることも好きだし、
価値観や考え方を人に委ねないし、
自分自身の感じ方を大事にしたいと
思っています。
相手の気持ちを考えることと、
言いなりになったり合わせたりすることは
別物だと思っています。
とある障害を持つお子さんの話を
聞くことがありました。
お相手は、NPO法人の方で、
力を貸してほしいと
お話をくださいました。
以前から知っている方だけど、
少しだけ畑の違う内容で、
たまたま世間話からの派生でした。
重い障害をもつお子さんが、
適切な環境を与えられずに
数年「可哀想な状況」に置かれていた
という事例です。
ここでの「可哀想な状況」というのは、
言葉を選べば前文と同義です。
私は、お話の流れの中で、
「えー?!」
とか
「○○がですか?!」
とか
「✕✕についてはあったんですか?」
とか相づちや質問はしながら、
お話が終わって最終的に

言いました。
お相手の方は、ビックリされて、
「だから、やっぱり
マーチさんなのよ!
可哀想って言って
何もしない人は
いっぱいいる!
でも、あなたは、
やっぱりそうよ!
私、今まで何十年って
こういうことをしてきたけど、
『悲しい』って言った人は
初めてだわ!
わかってる人も
わかってない人も
可哀想って言うのよ!
そしてね、可哀想って言う方が
可哀想って言う人もいるわ!」
割りと興奮していらして、
でも、認めていただいている
実感はありました。
嬉しかったのは、
「可哀想でしょ?」なんて悲しい言葉を
勿論その方が言わなかったからです。
時には


ちょっと私にはわかりません」
↓

「あなたって偽善者なのね」
「優しくない」
色々言われることがあります。
それでも徹底して、
障害があるくらいで
可哀想だとは判断できないし、
そもそも、私じゃない誰かのことを
たとえ可哀想に感じても、
その誰かが実際に可哀想かどうかは
わかりません。
そのお子さんにも、
他のお子さんにも、
可哀想にならないように
関わっていきたいと思います。
子どもたちが
喜びや楽しさを知り、
色んな気持ちを味わって、
豊かに成長して、
自立した生活の力をもった
大人になっていくと良いと思います。
私も「可哀想」と思うことはあるし
言うこともあります。
(これを書きながら、たまたま、
今日「可哀想」だと思うことがありました。)