トゥルースの心の薬箱 -10ページ目

トゥルースの心の薬箱

身動きのとれないあなたへ送るメッセージ。未来へ向かうための心のクスリになることを願っています。

やさしい言葉は人に生気を与えてくれる。

どんな時でも、やさしい言葉をかけてくれる人がいる。
自分だって苦しい立場にいるはずなのに...。とても辛いはずなのに...。

お互いが相手に対する思いやりと敬意を持って交わされる言葉は美しい。
それとも美しい言葉が思いやりと敬意を育てるのか?

心の底に悪気はないから....。
あなたのためだから......。
根には持っていないから....。
だから気にしないでいいから。

言葉で簡単に他人の心を傷つける人は、こんな風に言う。

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言葉はとても重い!

人は他人の言葉で天にも昇れば、地面に叩きつけられもする。

どんな時にもやさしい言葉をかけることの出来る人は言葉の魔力を知っている。
一方、簡単に他人を傷つける人も言葉の魔力を知っている。

地面に叩きつけられた経験しかない人の口からは、決して、やさしい言葉は生まれない。

叩きつけられて、傷ついている時に、救いの言葉をかけられた癒された経験のある人は、決して人を傷つける言葉を発しない。

人が人に対して本当にやさしくなるには、どうしても傷つく経験が必要なのだろう。

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どんな時にもやさしい言葉をかけてくれる人がいる。
あなたは、どんな傷を持っているのですか?
その傷はもう癒されましたか?

私に出来ることはありますか?
とある病院...

フロアのベンチには順番待ちの多くの人々が座っている。殆どが高齢者の方々だ。私は連れと一緒に、その中に混じって座っていた。

すると、そこに、母親に連れられた男の子が、通り過ぎていった。....小学2年生位だろうか?
さかんに駄々をこねている。

すぐに、その2人連れは戻ってきた。男の子の声は一層大きくなっていて、「座りたくない」、「行きたくない」という声が離れていても、よく聞こえてくる。そして、また去っていく。

ところが、またまた戻ってきた。

どうやら、男の子が母親の言うことをまるで聞かず、おとなしく座って待っていることができないので、フロアをぐるぐる歩き回っているみたいだ。

私は、大人として、男の子の気分を落ち着かせてあげたいという思いと、公共の場で騒いではいけないということを諭したいという思いで、しばらく見守っていた。

一人のおじいちゃんが、目の前をわめきながら、駄々をこねる男の子に、通りすがり際に声をかけたけれど、男の子にはまったく届かなかったようだ。

そして、もう一度、私たちの前に来たところで、向かいのベンチにその2人は腰掛けた。

わめき声は相変わらず。母親に対して、激しい言葉で罵っていている。2人の隣にいた老女が、男の子に声をかけ、あやし始めた。しかし、全く落ち着かず。最後には、母親の頭を拳で叩き出す始末だ。

子どもを諭すのは、とても難しい。まして、他人の子となると尚更だ。私は、ずっと、どのように声をかけたら、その子どもに伝わるかと、冷静に考えていたが、この時点で、冷静な思考が吹っ飛んだ。

つまり、我慢できなくなった。

駄々をこね続ける男の子にではない。もっと、近くにいるにも関わらず、最初のおじいさん以外は、誰一人声をかけないことに我慢ならなかったのだ。

すくっと席を立った私は、ゆっくり男の子に近づいて行った。その時、母親は少し離れた場所にいたのだが、あやしていた老女は、私が近づいてきたのを見て、少し不安の表情を浮かべた。

なにせ、こっちは寝起きで、ぼさぼさ頭の黒い革ジャンを着た怪しい中年男だ。
子どもを怒鳴りつけるとでも思ったのだろう。

私は、男の子の前まで行くと、その子の目線までにしゃがみ込み、出来るだけ落ち着いた口調で、

私:「ここはあなただけの場所じゃない。まわりには、病気を診てもらいに来た人がたくさんいて、あなたが大きな声で騒ぐと、気分が悪くなってしまう人もたくさんいるんだよ。わかるだろう。」
私:「君も病気を治しにきたんだろう。泣いていないで、先生に診てもらって、ちゃんと治さないといけないでしょう。でも、何で、そんなに泣いているの。」
男の子:「ママがジュースを買ってくれなかった。(泣)」
私:「そんなことないよ。後できっと買ってくれるよ。」
男の子:「買ってくれるもんか(泣)」
私:「そんなことない、ない(頭をなでながら)」

少し、落ち着いたかなと思った時に、順番が来たらしく、男の子は母親に連れられて診察室に消えて行った。

日本国民の3つの義務。勤労・納税.....そして子どもに教育を受けさせる義務

教育とは必ずしも、学校だけで行うものではないと思う。日常生活の様々な場面で大人が子どもを諭し、導かなければならない場面はある。また、この子どもとは、自分の保護下にある子どもを指す。

だが、将来を託すべき子どもたちの健やかな成長を支える義務は、社会全体として負っているものだと思う。自分の子も他人の子も関係ない。もっと言えば、日本国の子であろうが、他国の子だろうが関係ないと思う。

でも、法律を拠りどころにして、大層な義務感を意識させなければ、できないことなのか?
年をとれば、自然に自分より若い人たちのためになりたいという気持ちが芽生えてきて当然ではなかったのか?
いつから、我々はそんなこともわからなくなったのか? いや、わかっていても行動出来なくなったのか?

子育ては大変だ。母親と父親の2人だけで、成し遂げられるものではない。助けが必要なのだ。ほんの少しでもいい、誰かが関心を持ってくれれば救われる状況がある。

私たちの子ども時代には、そんなことが、つまり、赤の他人のほんの少しの関心、手助けを感じることが、もっと出来たような気がする。おかげで今日まで生きてこられたとも思う。

他人に無関心な時代。怖い事件が多い時代だから、仕方ないかもしれない......

でも、大人たちは、私も含めてだが、せめて子どもたちには関心を持ち続けて欲しいと思う。
誰とでも、初めて会ったのに、昔からの知り合いみたいに馴れ馴れしく、それでいて、不愉快な思いをさせずにコミュニケーションをとれる人がいる。

でも、よく注意してみると、2種類の人がいるように思う。

全く、何の抵抗もなく、他人とコミュニケーションをとれるタイプ



本当は人見知りなのに、飛び込んでいくタイプ

飛び込んでいくタイプの人は、抵抗を感じながらも、関わりを持とうとする。
だから、心の中には、たえず緊張感がある。

その緊張感を乗り越えて飛び込んでいくタイプの人には、持ち前のセンスと経験で培った、ある種の特殊技術が備わっているように見える。

人の本質を見抜く力、正確に相手の要望を感じ取る力

心配りの出来る人、気の利く人と言われることが多いのがこのタイプの人だろう。


一方、何の抵抗もないタイプの人は、どうだろうか???

私は、よく人見知りをしないと言われる。決して、そんなことはないのだが、周りからは、そう見えるらしい。

飛び込むタイプではない。
確かに、コミュニケーションをとることに、そんなに抵抗はない。

きっと、未知なるものへのシンプルな好奇心がそうさせるのだろう。

これは、心配りとは程遠く、気の利く、利かないとは、まったく別次元のものだと思う。

私は、人の好き嫌いははっきりしていると思う。でも、それは、その人の好き嫌いではなく、それぞれの人が持っているものに対して、「絶対に好き」、「絶対に嫌い」というのが、はっきりしているということだ。

一人の人の中には、他の誰かから見ると「好き」な部分と「嫌い」な部分がごった煮になっている。
「絶対に好き」か「好き」をいくつか見つけることが出来れば、その人と関わることに、なんの抵抗もない…と思うのである。