オナニーできないヤツが、セックスできるか。
かなーりお久しぶりです。
前回から4ヶ月弱も放置していました…。
でも、家にもちゃーんとネットが繋がったし(しかも光!)、
今後は定期的に更新していこうと思う次第でございます。
多分…。
ところで、最近なにをしていたかというと…、
仕事です。
仕事仕事仕事の毎日。
修行だと思ってやってはいますが、
さすがにボリューム満点すぎるかも。
頼まれたら断れないから、
どんどん仕事が降ってきて、こんもりとたまっていきます。
そんな環境の中、少しはコピーライティングの技術が上がったんじゃないかな。
むかしは、
「お前のコピーはオナニー(自己満足)だ!」
なんていわれ続けたけれど、
最近は少しずつ市民権を得られるものがつくれるようになってきています。
でも、やっぱり思うのです。
「すべての原点はオナニー」
なのではないかと。
自分が書いて気持ちいい・面白いと思えないものが、
どうして他の人たちを楽しませることができるのでしょうか。
オナニーをしたことのない男が、
どうしてセックスで女を喜ばれらるのだろうか。
だからこそ、僕はいいたい。
「クリエイターよ、大いにオナれ!」
がんばります。
神様は、なぜ人を不完全にしたのか。
今週、会社の同期に連れられて、座禅に行きました。
初めての座禅体験です。
しかも、曹洞宗。
創始者の道元は昔、勉強した、
日本で最初の哲学書『正法眼蔵』の著者。
だから、そのお寺の住職さんの説教も素晴らしかった。
座禅は、ただひたすらに何も考えずに座ること。
無になること。
なんて言う人もいるけれど、実際にはそんなのは無理。
生きていて、目や耳からいろんな情報が入ってきて、
それでも、何も考えないことなんてできるのだろうか?
大切なのは、何にも囚われない、ということ。
何か特定のものに心が奪われそうになったとき、
常に、座ることに立ち戻る。
世界にある色んなものを常に平等に、相対的に、
眺めるための道具。
それが禅に過ぎない。
ちょっと感動してしまいました。
大切なのは、人間の弱さを全否定することではなくて、
人間の弱さを知ったうえで、それを認めてあげること。
そして、それから、解決策を探すこと。
それがいちばんリアルな宗教のあり方なんじゃないかな、
なんて思いました。
宗教だけじゃなく、あらゆるものもそうあるべきなのだけど。
ヒトをコトバで包めるか。
今週の後半は、ひたすらクリエーティブの研修でした。
今までは、割と自己流でやっていたものを、
初めて体系立って教えてもらって、一歩前進気分です。
ターゲットを設定するときは、まずは年齢や性別、嗜好などを色々と列挙。
そして、それをまとめたものが、ターゲット。
これでターゲット設定終わり!
と言いたいところだけど、ホントは違うと思う。
ターゲットは、いつでも実際に存在する生身の人間。
ターゲットを定義したコトバを、実際のイメージまで昇華させないと意味がない。
もし、そこで実際にいる人間を想像できなければ、
そんなターゲットは最初からいなかったことになる。
コトバで言い表せる特徴と、
実際にその特徴を持っている人が普段どんな生活をしているかを、
リンクさせるところまでやらないと、
ターゲット設定は終わらない。
こんなことを考えました。
ヒルズに、いっぱい人がいるように見える理由。
昨日、六本木ヒルズに行った時の話。
エスカレータを使って移動していたのだけれど、
ヒルズのエスカレータはいちいち離れたところにあって、
例えば、2階から4階に行きたいときも、
一度、3階を少し歩き回らなければならない。
でも、それは設計者側の工夫。
歩き回らなければならない構造を作ることで、
色々なお店を、お客さんに見てもらえるようにしているのだろう。
なかなか面白い。
こっち側としては、ちょっと不便なんだけれど。
何事も作り手側の視点で見なければ、と思った休日でした。
サラリーマンなんて、楽しい。
かなりお久しぶりの更新です。
新生活のスタートに伴って、なかなか更新できない環境にいます。
僕もついにサラリーマンです。
昨日までは、4、5年働いたら転職して、
違う環境で専門的なスキルを身につけようかなあ、なんて考えていました。
でも、今日、社長の話を聞いて、ちょっとその気持ちが揺らいでしまいました。
いい意味で。
転職してキャリアアップなんてしている場合じゃないくらい、
新しくて刺激いっぱいの将来を共有できるんじゃないか?
なんて気が少ししちゃいました。
このメンバーと、この会社なら。
なんて。
なんにせよ、まだ入社2日目ですが、サラリーマン生活が楽しくて仕方がないです。
恐怖を感じないから、スキー板はよく滑る。
今週の始めは、3年ぶりのスノボに行ってきました!
ひどく寒い雪山で何でこんなにアクティブに過ごさなきゃいけないんだ?
などと、ウィンタースポーツに対して
色々後ろ向きな気持ちが多かったけれど、
やっぱり、大自然を体いっぱいに感じながら時間を過ごすことは、
すごく新鮮で、たまにはこんなのもいいかなあ、と思ってみたり。
でも、3年ぶり&2回目とあっては、
もう、コロコロバタバタ倒れる倒れる…。
体中あざだらけになってしまいました。
同じフォームで滑っていても、倒れるときと上手く滑れるときは少し違う。
でも、その違いは、スピードとかフォームが第一原因じゃない。
『集中力』。
これに尽きるのだろう。
自分なりに速いスピードで滑っているときは、
当然、恐怖心や『倒れる!』っていう不安感が頭を覆う。
でも、それは、集中力が欠けている瞬間でもある。
『このフォームでこんな風な足運びで…』
という具合に、ただひたすらに滑ることに対して考えられることが大切。
その時、恐怖心や不安感は雑念に他ならない。
滑ることに対してストイックになれていない。
倒れた後のことと、滑ることは、直接、関係ない事柄だ。
そもそも、成功する人や何かに一生懸命な人は、
『失敗したらどうしよう?』
なんてことは、考えないはずだ。
失敗したその後の身の振り方。
それは、今、向かい合っている物事とは直接関係ないことだ。
目の前の出来事に、真摯に向き合えていない証拠。
でも、失敗したときを考えて怖くなるのは、
人間にとって当然の摂理。
危険なことに対するブレーキがなければ、
個体は場合によっては、
簡単に命にかかわる問題に出くわすだろう。
だから、集中力というものは、
人間・動物本来の本能を、
ある種のマヒ状態に陥らせる行為なのかもしれない。
雑念はいつでも、根源的だ。
どんなに何か大切なことに没頭しているときでも、
少しでも気を抜いたら、
いや、気を抜いたつもりはなくても、
集中力のわずかな隙間をぬって
内側に潜り込んでくる。
単に劣っていて、どうでもいいものなら
きっと、没頭している大切なことの中には入り込むことはできない。
それは、フランスの哲学者ジャック・デリダのいう、
『代補』の概念によく似ている。
そういう意味でも、
取るに足らないような、雑念も同様に大切なものなのかもしれない。
何だか脱線して、抽象的な話になってしまったけれど、今日はここまで。
最近は、ネクラな話が多くて、申し訳ないです…。
思い出で溢れたビールグラス。
ちょっと開いちゃいましたね。
この間何をしていたかというと、
四国にヒッチハイク旅行に行ったりしてました。
今度九州にも行く予定なので、
ヒッチハイクについてはその後書こうかなあ、と思っています。
今回は昨日のこと。
昨日は、なんばにダンスパーティーに行ってきました!
今までダンパなんて行ったことはなかったけれど、
知り合いに誘われたということもあって、行って来ました。
実際に行ってみるとすごい!
なんかすごい格好をした女の子やギャル男みたいな人達の群れ。
まさに異人種でした。
短い時間だったものの、
そんな慣れない環境に身を置いたいたので、ちょっと緊張しました。
ダンスもせずにただ座ってビールを飲んでいただけなのに、疲れました。
そして、そのビールもいつもより何か苦く感じる。
その苦さに一種のデジャヴーを感じてしまった。
『この苦さ、どこかで…』
と記憶を糸をたどってみると、突き当たったのが、
大学に入りたての四月、新歓コンパで飲んだ慣れないお酒の味。
あの頃、『大学に入ったらいっぱい勉強するぞ!』
と思っていたけれど、実際、入ってみるとコンパ三昧の日々。
思い描いていた、文学の薫り高い大学生活とは全く違う刹那な暮らし。
そんな焦りや失望の中で、飲んでいたビールの味は苦かった。
その苦味を、昨日のダンパでなぜか感じてしまった。
多分、慣れない環境で放り出されて、
一人の女の子にも声を掛けるできないことに対して、
不安や情けなさを感じていたのだろう。
そんな感情が、どこかで大学入学したてのあの頃とシンクロしていたのかな。
『思い出の中にバラの匂いがあるのではなく、
バラの匂いの中に思い出が存在する』
といったのは、ベルクソンだ。
記憶が呼び起こされるのは、何か懐かしいものに触れたとき。
触れたときに思い出される記憶は、そのときの感情によって異なる。
嬉しいときには、嬉しい思い出。
悲しいときには、悲しい思い出。
昨日、ビールの苦味の中に、京都で新生活を始めた頃の思い出があった。
いろんな場所で、いろんな人と、いろんな気持ちでビールを飲んできたけど、
昨日のビールの味は、4年前に飲んだ味だった。
4月からの新生活で飲むことになるビールの味は、
きっとこんな味が多いんだろうな。
いつもは爽快なビールの味だけど、
そんなセンチメンタルな味も悪くはないな、と思った昨晩でした。
発明家よりも、発見家。
卒業間近、本当にお金がありません…。
でも、就職間近、いまさらバイトする気もありません。
働く時間があったら、遊びたい。
みたいな。
ダメ人間の典型ですねえ…。
お金稼ぎも兼ねて、最近は懸賞コピーや童話に手を出そうとしてます。
可能性は低いけれど、まあ好きなことできるし、
トレーニングにもなるし、まあいいかな?
それで、コピーとかを考えているときは必ず、
お菓子とコーヒーと音楽と一緒。
今日は、ミスチルの『シフクノオト』を流していました。
僕自身、凝り性で視野が狭い性格なので、音楽もあまり種類豊富には聴きません。
聴くとすれば、ミスチル、小沢健二、くるり、ビートルズくらい。
その中でも、ミスチルとは、10年以上の長ーいお付き合いなのです。
でも、最近は、なぜかそこまで聴いていませんでした。
それでも、久々に聞くと、やっぱりなかなかいいアルバムだなあ、と思いました。
とくに『くるみ』の歌詞がたまらなく心に響きました。
出会いの数だけ別れは増える
それでも希望に胸は震える
今以上をいつも欲しがるくせに
変わらない愛を求め歌う
言葉の選び方もさることながら、桜井さんの視点はやっぱりするどいなあ。
日常生活の中で当たり前にあるのに、
みんなが意外と見落としてしまいがちなものをうまく拾っているなあ。
とても勉強になる!と同時にちょっぴりジェラシー…。
やっぱり、感動は発明するというよりは、発見するもの。
発明からは驚きが、発見からは感動が生まれる、のかな。
もともとそれぞれの心の中にあるものを、
すくい取ってあげなければ、共感は生まれないよね。
共感っていうのは、お互いに共通の体験がないと生まれないものだから。
そんな中から生まれた共感が言語化、映像化されると、感動が生まれる。
そんなことを、再確認できたいい昼下がりでした。
今日はいつもより、ちょっとだけいいものができそうな気がします。
ストーカーに後をつけられる生活者。
インターネット広告って、やっぱり効果的なんだなあ、と思います。
バナー広告は、いまいちとは思うけど、
検索連動型広告はなかなか効果的だし、ユーザー側にとってもかなり便利。
ちなみに、検索連動型っていうのは、ヤフーとかで何か検索したときに、
検索ページの上のほうに色つきで出てくるアレが、それに当たるのかな?
インターネットのインタラクティヴ性は、
『消費者の行動心理に対応した広告』
っていう、今までは理屈でしかなかったものを、現実化させるものなのかなあ、
と感心してみたり。
最近では、検索連動型広告を進めて、「行動ターゲティング」という手法も出てきているらしい。
この手法は、例えば、自動車の購入を検討している人が、
自動車サイトを検索したその履歴から、
『自動車関連に興味アリ』と自動的に判断されて、
行く先々のサイトで、自動車広告を配信・掲載する、というもの。
でも、これにもちょっとした問題がありそう。
商品やケースにもよるんじゃないかなあ。
例えば、受験生がネットで参考書や塾を調べた後に、
気分転換で違うサイトをサーフィンしていたとする。
そのときに、毎回毎回、受験関連の広告が出ていたら、げんなりしそう。
逆に購買意欲がそがれてもしまいそう。
PULL型営業の手段である広告が、PUSH型になり過ぎてしまうと、
何だかちょっと問題が出てきそうな気がします。
だから、ターゲットをいつでも消費意欲を持っている『消費者』として
とらえるのではなくて、
買いたいときがあればそうでもないときもある『生活者』として
とらえないといけない、と個人的には思います。
『消費者の行動心理に対応した広告』っていうのは、
そんなことも踏まえた上で実現されたら、すごいだろうなあ。
最近のブログは、問題提起で終わってるだけだから消化不良だな…。
政治家は恋愛下手?
最近買った『広告批評』。
東京旅行に持って行って、地下鉄の中でよく読んでました。
テーマは『憲法前文のイミ』。
自民党の新憲法草案に関するものでした。
普段はこんなことを考えない僕も、
そんな大切なことを考えてみる、よいきっかけになりました。
自民党による草案の中にはこんなことが書いてありました。
『日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感を持って自ら支える責務を共有し‥』
この部分がちょっと不思議だなあ、と引っかかりました。
愛情の部分にまで踏み込んで義務づける、というのはどうなんかなあ。
こんなものは、ある男が女を口説くときに、
『おれを愛しなさい!お前にはその責任があるんだ!』
って言ってるようなもの。
これじゃあ、女はなびかない。
ちょっと上手い人なら、プレゼントをあげたり、気の利いた言葉をかけたりして、
相手の気を引こうとするでしょう。
そうすれば、上に書いたような命令をしなくても、
自然と相手は好きになってくれるはず。
国民ひとりひとりが、自然と国に愛情を持てるようにすること。
これが大切なんだと思う。
憲法前文に手っ取り早くそんなことを書くような、トップダウンなやり方ではなくて、
もっと、身近の家族や地域、県、そして国へと愛情を拡げてゆく。
といった具合に、ボトムアップなやり方で取り組む必要があるのだと思う。
それが心情の教育に関する正しい姿勢でしょう。
左翼のユートピア的なものの言い方も嫌いだけど、
右翼の人の心情にまで土足で踏み込んで来るような態度も嫌い。
特例ばかりを後付けで作りまくらなければ、国家がうまく回ってゆかない、
という、今の憲法は何にせよ、作りかえる必要はあると思うけれど。
