本記事は『正法眼蔵・行持(上)』(訳注:安良岡康作)の第一章「行持の総説」を読み、その意味を考えるものである。本章では、行持の性質とその功徳について説明されているが、「行持」を別の単語に置換すると、世俗化の進む現代社会においても説得力のある提言となるのではないかと思う。

 

行持とは、仏行の持続を指す。具体的には悟りを得ようと決意する「発心」、悟りを得るための「修行」、実際に

悟りを得る「菩提」、悟りを得た上で現世を離れる「涅槃」の一連の連続的プロセスが「行持」である。

 

著書において、行持というのは多種多様な功徳をもつ行為であり、また行持を通じて空間や時間、個を超越したネットワークを形成することができる。「行持の功徳、われを保任し、侘を保任す」(p.24)とあるように、行持は自分だけでなく行持を行う他人をもサポートする。さらに、行持の功徳は「匝地漫天(そうちまんてん)」、つまり世界と「過去・現在・未来」の三世にまで及ぶ、空間的・時間的な普遍性をもつ。

 

行持がそのような功徳をもつかどうかは別として、道徳的に「善い」と言われることは、概ね空間的・時間的な拡張性をもって、客体に利益をもたらすものではないか。例えば、公園でゴミ拾いを行えば、その公園を「未来」において使う人に快適性をもたらし、「過去」において使った人が維持してきた公園そのものの価値を保全することとなる。また、ゴミ拾いを通して、野生動物がうっかりゴミを漁り、その結果体調に異常をきたし、生態系に影響を与え、さらにその地域の生態系が変わったことでよその生態系との関係性も変化し、さらにその地域の...といった結果的に地球環境に異常をもたらすこととなるバタフライエフェクトの発生を防げるかもしれない。著書では、そのような効果が行持にあるのだと説いている。

 

行持の功徳というのは、意識できるときもあればできないときもある。それでも、行持の功徳は「隠顕(おんけん)・存没(ぞんもつ)に染汚(ぜんな)せられざる」ため、変わらず禅を学び真理を探究し続けるべしと説いている。行持の功徳は人間の意識や、存在の有無を超越した概念であるから、迷わず仏行に励めと言っているのだ。行持の功徳が「ある」、だの「ない」だの考えることは野暮らしい。存在論の部分は宗教的側面が感じられるとはいえ、もう一方の「意識できるかどうかは関係ねえ!」という視点は、目先の結果だけを求めがちな現代人によく響くのではなかろうか。「行持」を「受験勉強」に言い換えてみる。受験勉強を毎日行う中で、精神的にまいって勉強を続けるメリットを見出せなくなるタイミングが受験生にはあるだろう。しかし、受験生の意識に関わらず受験勉強自体、そして受験勉強によりもたらされる結果の客観的なメリットは変わらず存在している(でなければ、学習塾の存在意義はなんなのか)。

 

行持には時間的な拡がりがあるものの、最も大事なのは「いまの行持」である。いまの行持があって初めて、過去と未来の行持と繋がることができる。そして、行持は妥協してはならない。「行持は、しばらくも懈惓(けげん)なき法なり」。今、必死に仏行に励むことを求めているのだ。現在のありのままを受け止める禅らしい教えといえる。

このフレーズを読んだとき、カイジシリーズに登場する班長大槻のセリフを思い出した。「明日からがんばるんじゃない…今日…今日だけがんばるんだっ…!今日をがんばった者…今日をがんばり始めた者にのみ…明日が来るんだよ…!」。本著で言いたいことも、こういうことなのではないだろうか。

 

本著を読み始めた目的は、昨今の国際紛争、政治的不正、無責任で根拠なきスキャンダル報道、些細なことで発生するSNS上の炎上、そういったものを見る新たな、かつ普遍的な視点を得ることであった。しかし、読み進めるとなるほど、『正法眼蔵』が私に送るプレゼントは、そんなちゃちなものじゃないと確信した。この本は、特定の問題だけじゃない、人生そのものに対する21世紀においてもなお新鮮な価値観を与えてくれるものだ。だからこそ、ここまで読み継がれてきたのだろう。

 

 

 

【書籍】

安良岡康作訳注(2002)、「正法眼蔵・行持(上)」、講談社学術文庫

 

【読書目的】

SNS上やニュースで取り上げられる、俗世間的問題を仏教、特に禅の観点から分析するための土台を形成する。