「横道世之介」(吉田修一、毎日新聞社)
※ネタバレありです。同じ著者の「パレード」伊坂幸太郎さんの「砂漠」についてもほんのり触れているので「内容を1ミリも知りたくない!」という方はお気をつけください。
この本については先日のブログ で「同じ著者の『パレード』を読んでいるだけに、最後の最後まで話がどう転がるのかが読めず、少し緊張しながら読み進めています」と書きました。
読み終えた感想は……
……やっぱりこう来たか。
という感じです。
どこにでもいそうな人々の日常を軽やかに淡々と描きながも、その「軽やかに淡々と」に甘えることなく、とことんリアルを追究する。それが吉田修一さんという作家なのかなあ。
吉田さんの本をまだ2冊しか読んでいない身でこんなすべてを分かったようなことを言うのは如何なものかと思いつつも、とりあえず「パレード」と「横道世之介」を読んだ今は、そんな印象を抱いています。
バブル期に長崎から上京した、主人公・横道世之介。平凡な大学生である彼の1年間がつらつらと語られる中に時折、彼をとりまく人々の現在(2008年頃かと推定されます)が挿入される。その構成が秀逸です。物語が進むにつれて、この「現在」がじわじわと効いてきて……胸の深いところを締めつけられるような抉られるような温められるような、そんな他では得難い感動の嵐に襲われました。
強引にくくってしまえば「モラトリアム小説」ということで伊坂幸太郎さんの「砂漠」等と同じジャンルに分類することもできるかと思いますが、その根底に流れる思想は対照的。伊坂さんの「砂漠」が切なさの中にも明るい未来を期待させてくれる終り方なのに対し、吉田さんの「横道世之介」には未来そのものがない。読んでいるうちに世之介が大好きになってしまった私にとって、その結末はあまりにも衝撃的で悲しいものでした。
ただし、この衝撃は「パレード」を読み終えたときのどす黒く重苦しい衝撃とはまったく別種のものです。
「パレード」を読んだときは正直「リアルだけどちょっと意地悪すぎる。現実は、ここまで救いがないものじゃないよ」などと少なからぬ反発を抱いてしまったものですが、「横道世之介」の終わり方は素直に納得できました。
人生って、現実って、たぶんこういうものだ。
愛情あふれる眼差しで人生を見つめながら、シビアかつ客観的にその本質を捉える。
捉えたものを、からりと乾いた文体で、優しく突き放して表現することができる。
それができる吉田修一さんは、本当に素晴らしい作家さんだと思います。
どれだけキラキラしている日々も、その最中にいるときは気づかないものなのかなあ。
人生は無慈悲で無常で、でも愛おしいものなのだなあ。
何がどう転がってどんな未来につながるかなんて分からないものなんだろうなあ。
など、色んなことを考えさせられたわけですが……
……ああ駄目だ。今思い出すだけで涙が出そうになる。
私はかなり涙もろい方です。でも、本を読んで声を上げて泣くということは滅多にしません。じわじわ目頭が熱くなるとか、頬を一筋二筋涙が伝うとか(ちょっと見栄を張って綺麗めな表現にしてみましたが、実際は涙より鼻水の方が先に溢れ出してきます)せいぜいその程度。でも「横道世之介」の最後の1ページを読み終えたときは、大袈裟でなく嗚咽が止まりませんでした。
「好きな本」はたくさんあるけれど、ここまでの感動を与えてくれる本とはなかなか出会えない。
この物語、私はたぶん、ずいぶん長いこと引きずることになると思います。
心に深々と突き刺さったこの小さな棘を、大切にもって歩いてゆこう。
しばらくこの余韻を噛み締めていたいので、7月中はもう小説は読みません。文章作法についての課題図書をせっせと読もうと思います。


