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眠気覚ましになるかは分かりませんが、
仲正昌樹さんの『今こそアーレントを読み直す』を読みながら、現代社会の問題点を考えると共に、自分が何故書けないのか、或は書かないのか、考えてみました。


《みんなが”自分の活動”に夢中になって、他を顧みれなかったら、「政治」の中で「複数性」を培うことはできない。表舞台からいった引き下がって、「観客」の立場で、舞台上の「活動=演技」を判定する人も、「政治」成立させるうえで必要である。》(209頁)


アーレントは古代ギリシアやローマにおける都市国家で行われていた共通善についての絶え間ない討論を「活動」として、「活動」することが、人間にとって最も重要だと考えていましたが、晩年の『カント政治哲学講義』の頃には「活動」を少し引いた所からみつめている「観客」を重要視していたそうです。


《その問題の当事者である人や、特定の運動体に属して党派的な立場からその問題にコミットし、自らの党派的主張の実現のために、”実践”している人、いわゆる『活動家』的な人の意見が神聖視されるという現象がしばしば起こる。》(210頁)」


《”政治論壇”には「派遣村」に集まったような弱者に対する共感の表明として、彼らを切り捨てた『新自由主義』への非難の声を上げない者は、発言する資格がないと言われそうな雰囲気さえある。》(222頁)


など、仲正さんが本書で何度も書かれているように党派的な正しさが横行している現状だからこそ(今こそ)、確かに「観客」の存在が重要であるように思います。


しかし、それら四方八方に散らばった党派的正さを冷静な目で見つめる観客は、一体誰がその役割を担うべきなのだろうか。


《直接的に表舞台に加わらない、「観客」が存在し、様々な視点から問題を注視していることによって、「政治」に「複数性」がもたされるのである。私個人にとっての必然性もないのに、特定の立場にコミットして、無理に積極的なアクターになろうする必要性はないし、アクターになろうとしない人を、安易に卑怯もの呼ばわりすべきでもない。》(211頁)


という仲正さん自身が、直接的に表舞台に加わらない「観客」なのだろうと思いますが、そうなると、仲正さんのように知識や教養を持っている人しか、「観客」の立場で、舞台上の「活動=演技」を判定する人になるのは難しいような気もします。仲正さんやアーレントが想定している「観客」がどのような存在なのか、本書を読む限りでは分からないのですが、批評家以外では例えば、映画監督や劇作家は、それに当るのかもしれません。文字通り、演技を判定する者として。

しかし、僕のようにアクターでも、映画監督や劇作家でもない存在は、どんな役割を演じれば良いのだろうか。


《普通の人にとっては、どういうことのない瞬間、何気ない言葉のやりとりが、どうしても気になって仕方のない、そういった偏屈な人間が劇作家になる。そして、その瞬間、その言葉に、徹底的にこだわることによって、普通の人々も潜在意識の中では実はさまざまな妄想や、悩みや喜びを抱えながら生きているのだということを明らかにしていく。劇作家というのは、そのような仕事だと私は考えている。》
 

と劇作家の平田オリザさんは『演劇入門』のまえがきで述べている。仲正さんも「そういった偏屈な人間」なのかもしれないし、(仲正さんやアーレントが言う)「観客」とはそういう人なのかもしれない。

僕も偏屈な人間か夢中なアクターだったら、「書ける」のかもしれない。しかし僕には仲正さんや他の批評家の方々のような知識や教養も、論文を書く技術も体力もないければ、夢中に活動する舞台もない。

なので、やはり、このまま他人の言葉を引用するだけのこのブログを夢中で続けるしかない・・・・

と、つい他人の書いた本で記事を一つ書いてしまいました。
コピペに対して批判的な本書の主張に反するかもしれない記事を・・・
ただ自分には、このようなはてなダイアリー的な記事は余り向いていないような気がします。


僕はペンを折らなくてはならない。
ペンは剣より強し。
コピペはペンより強し、と主張するつもりはありませんが、
自分が書けない理由と、そもそも「書く」ということさえ困難な現状、これらの問題について真摯に考えて行く為に。


本書の(そしてアーレントの)主題の一つである「公共性」について触れることが出来ませんでしたが、


《ネットというメディアの双方向のおかげで、ネットを利用する各人が個性的な「仮面=人格」を被って「現れる」可能性が広がっているともみることができる。》(148頁)


と、ネット上に「公共性」が生まれる可能性も示唆されています。ネット上に「現れ」た個性的な「人格」が、例え討論や対話という形式を持ちいらなくても、ブログ等で良質な意見を主張することによって、仲正・アーレントが「政治」に必要だと考える「複数性」を保ちながら


《自己チューな個人の孤立した生き方と、画一的な集団主義のいずれにも偏することがないよう、「共通善」を中心点として「活動」する各人の「間」に適切な距離を設定する空間、すなわち「自由の空間」を創設し、維持していくこと》(128頁)


が、実現できるのかもしれない。こういう考えは楽観的過ぎるかもしれないし、突き詰めると東浩紀さんの言うGoogle的一般意志に近づくかもしれないのでが・・・


これらの問題については今後未だ読んでいないアーレント自身の著作を読んでから考えたいと思います。書けない僕が、「書く資格」、「書く自由」を手にするには『人間の条件』を満たさなければならないのかもしれないのだから。