離婚カウンセラーの資格を持っている友人に、ことある事に夫の愚痴を聞いてもらっていた。


 

そんなワタシに見かねて、
念のため読んでおきな!と、
「離婚の準備」という本を手渡された。



離婚する大変さを知っている
彼女の優しさだと思って、
ありがたく借りて帰った。




自分専用の引き出しの
いちばん下にこっそり隠した。

 
 


そんなある日のこと。


 
あろうことか、その本を、
当時小学生だった息子に見つかってしまい、
夫にバレてしまった。
 
 
 
 
夫は、
 
 
 
なんで、そんな本を持ってるんだよ
 
 
 
と、訴えるような目で、
敵意をむき出しにして睨みつけてきた。
 
 
 
 
 
ワタシは、

 
「友達に借りただけだよ(深い意味はないよ)
 
 

と、冷静さを装うのに精一杯だった。
 
 
 
 
 
内心、引き出しを勝手に開けた
息子にイラつきながらも、




問題はそこではないと、
すぐに気持ちを切り替えた。
 
 
 


離婚の本がバレてしまった瞬間は、
しまった!と思ったけど、
 
 
 
でも、よくよく考えてみたら、
冷えきった夫婦関係を修復する
いいきっかけになるかも。
 
 
 
 
そんなふうに思った。
 
 
 
 

けれども、
夫からは何も触れてこなかった。
 
 


 
ふつうの夫婦だったら、
どちらか一方が
離婚を考えているかもと気づいたとき、
 
 
 
 
何か不満があるのか?とか、
本気で離婚を考えているのか?とか、
 
 
 
 
心当たりがあってもなくても、
相手が何を考えているのか
聞くものではないのか?
 
 


ワタシが夫と同じ立場だったら、
絶対にそうするし、




ここは、コミニュケーションをとるべきところではないか?と思った。
 
 
 

でも夫は、
離婚の本を隠し持っていたワタシに対して、
怒りをみせるだけで、
 
 


その後も、
何事もなかったかのように過ごしている。





そんな夫の姿を見て、



「離婚を考えているワタシが悪い。間違っている。」


と、ワタシが悪いことをしているかのようにされた、そんな気持ちになった。





これが夫婦と言えるの?
まるで仮面夫婦みたい。


と、


その時は、
悲しくて、むなしくて。



ワタシひとりで苦しんで
悩んでバカみたいと、
静かな怒りも込み上げたけど、
ワタシからはどうすることも出来なかった。
 
 
 

これは、
単なる愛情不足の話なんかじゃなく、
想像力の問題でもない。
 
 
 


夫が実際に、
なにを考えていたのかは分からないけれど、





「離婚の本を隠し持ってるなんて、なんて奴だ」




と、離婚を考えていること自体がイケナイことだって、




無言の圧力をかけられたような、
心を締め付けられるような気持ちになった。


 


でも、
夫からすると、
今まで支配できていた相手が、
自分から逃げ出そうと(離婚しようと)考えているのだから、
 


「ふざけるなよ…」って、
怒りが込み上げてくるのは当然なことだけど、





当時のワタシは、




夫から「歩み寄ってくれる」ことを期待して、
苦しんでいた。








そんな価値観のズレに、
 
 
 


「自分の存在を無視された」
 
 
 



と、無意識に心が反応して、
 
 


 
知らず知らずのうちに
 
 


 
心に傷がつく。
 
 
 



自分の存在を無視されることは、

「あなたは生きている価値がないよ」

と、言われているのと同じだと思う。





本人にもわかり得ない、
誰にも気づいてもらえない
ソフトモラハラは、


 
暴力や暴言で傷つけられるよりも、
 
 
 
 
むしろ残酷だと思う。
 
 
 


ソフトモラハラは、
そうやって人の心を壊していくのだと思う。
 
 
 













イヤなことをされたり

傷つけられても、

よっぽどのことじゃない限り

私は「怒らない人」だった。




「怒り」の感情が、

わかない、というか、

怒っても「しょうがない」と

「あきらめる」感じ。





しょうがないっていう中には、

「どうせ相手は変わってくれない」っていう

「拗ね」もあるのだけど、






逆にいえば、

「相手に変わってほしい」と

望んでいることにもなる。





何を望んでいるのだろうと、

考えてみると

「やさしさ」と「思いやり」だった。





少しでもいいから

「やさしさ」と「思いやり」を

持って接してください。って。






だけれども、

相手がソレを

持ち合わせていなかった場合、

期待したぶん、

裏切られたときのショックは大きいので、





それならば、

「怒らない人」になったほうがいいやと、

いつも自分を守っていたわけです。





そもそも、

「やさしさ」や「思いやり」がない人からは、

さっさと離れる選択もあるのだけど、

それはまた別の話。





そんな私にそっくりな

中学生の娘。



先日、娘の友人関係の話を聞いていて

気づかされたことがある。




それは、

イヤなことをされたり、

傷つけられたら、

「怒り」の感情を、

出したほうがいいってこと。





「怒り」の感情をおさえれば、

波風立てずにすむし、

それ以上傷つかなくてすむ。



パワーも時間も使わずにすむぶん、

「ラク」もできる。



つまり、

相手との関係性の

現状維持はできるのだけど、






「怒り」や「悲しみ」の感情と

向き合わないことになるのは

よろしくない。






「怒り」や「悲しみ」の感情を

置き去りにして

過ごしてしまうと、





「私にイヤなことをしてもいいと思っているのはどうしてだろう」




「イヤなことをされても仕方がないのかな」




「私はそういう存在なんだろうな」




と、




自分を大切にする気持ちを

だんだんと持てなくなってしまうし、

そんな自分を責めてしまうことになるからだ。




つまり、





『自分に自信がもてない人』





になってしまうということ。




だから、私は、

いつも自分に自信がなかったんだな…。





そんなことに、


娘の話を聞いていて

気づかされたのです。










イヤなことされたり

傷つけられたりしたら、




大きな声で、

「いやだ」「やめて」と、

わたしは怒っています!と、

「怒れる人」にならないとなと思った。





相手がその先、

変わるか、変わらないかは、

相手が決めることであって、

こっちが気にすることではない。





これ以上、

私を傷つけさせないわよと、

「自分を守ること」が目的。




 
「怒る」って、

私にとっては、

勇気がいることだけど、



これからは、

うまく「怒れる人」になろうと思うし、

娘にも、そうなって欲しいなと思うのです。





 

 

 

 

 

私自身「自分と向き合う」を

 

 

まだまだ続けているのですが、

 

 

 

 

子供の頃の自分を思い出すと

 

 

「大切にしたいもの」が見えてくるな~と

 

 

改めて思ったので、

 

 

今日はそんなお話です。

 

 

 

 

 

 

団地住まいだった、幼少期。

 

 

 

 

各部屋にテレビがある、

 

そんな家庭で育ちました。

 

 

 

 

台所には、母。

 

 

コタツがある部屋に父。 

 

 

その隣の部屋が子供たち。

 

 

 

 

三人兄弟で、

 

よくチャンネル争いをしていました。

 

 

 

 

 

母も父も、

 

ほとんどテレビを観ているから、

 

夫婦の会話は少なかった。

 

ただ、お酒が入ったときだけ

 

饒舌(じょうぜつ)になる。

 

 

 

 

私も用事があるときしか

 

親に話しかけなかったし、

 

「今日は学校どうだった?」なんて

 

親から聞かれることもなかったので、

 

「他愛のない会話」をした記憶がない。



 

(ただ記憶にないだけで少しはあったのかもしれないけど…)

 

 

 

 

ご飯を食べるとき。

 

父の部屋のコタツ机で食べるのだけど、

 

母はいつも台所でテレビを観るから

 

家族そろって食卓を囲むことはなかった。

 

 

 

 

そんな自分の家族に対して、

 

「うちって、家族団らん、ないよね。」って、

 

子供ながらに思っていた。

 

 

 

 

それと同時に、

 

「私が結婚したら、

 

笑い溢れる楽しい家庭にするんだ」っていう、

 

記憶がかすかに残っている。

 

 

 

 

 

母は淡泊な人で、

 

正直、笑顔で話しかけられた記憶はない。

 

遊んでもらった記憶もない。

 

 

 

 

かといって、不機嫌でもないし、

 

話しかければちゃんと応えてくれるけど。

 

 

 

 

とにかく、笑った顔、見なかったな〜。

 

会話も続かなかったな~。

 

っていう感じ。

 

 

 

 

そんな母だけど、

 

どういうわけか、

 

ご近所さんや親戚の前では

 

なんか態度が変わる。

 

 

 

明るくなって、

 

めちゃめちゃ笑って話す。

 

 

 

 

そのギャップが

 

子供ながらに印象的で…

 

 

 

 

「私じゃ、つまらないの?」

 

「私とは笑って話してくれないの?」

 

と、ちょっとショックで

 

寂しかったのを覚えてる。

 

 

 

 

私の友達と

 

いつもと違うキャラで話す

 

明るい母の姿を見ると、

 

そのショックさは増す。

 

 

 

 

よくよく考えたら、

 

他人の子には気を遣うのかな?とも思うけど。



 

私には、口数が少ない母だったのが、


どうやら悲しかったようだ。


 

 

 

 

思春期以降は

 

うるさいこと言われないから

 

自由にできて、

 

ラッキーって思っていたけど、

 

 

 

今でもずっと根深く覚えてるってことは、

 

まぁまぁ寂しかったのだろうな…と思う。

 

 

 

 

 

母に対する

 

寂しいエピソードは、

 

ほかにもまだあるけど、

 

長くなるのでやめておく。

 

 

 

 

 

いくつかの「さみしい経験」から、

 

 

 

どうせ、私になんか興味ないでしょ?

 

話したくなさそうだから、ふんっ!

 

 

 

ってなって、

 

 

 

 

『自分の気持ちを伝えるという選択肢』が

 

早々と消えてしまったように思う。

 

 

 

 


いつしか、

 

 

 

笑ってくれない=愛されてない

 

ふてくされた「にがいタネ」

 

 

 

 

が、こころの中に

 

芽生えたのだろうな~って思う。

 

 

 

 

その「にがいタネ」から、

 

母に対してだけではなく、


目の前の人に対しても、




自分には興味ないよね?


私の話なんて聞きたくないよね?




っていう完全なる思い込みから、

 

目の前の人を笑顔にしたい願望

 

が生まれたのだと思う。

 

 

 

 

 

 

母に愛されてる実感を

 

味わえなかったぶん、

 

目の前の人を笑顔にすることで

 

愛されようとしていたと思う。

 

 

 

 



 

そのまま大人になった結果、

 

夫や子供の笑顔を優先しすぎて、

 

自分が笑顔になることを忘れてしまい、

 

 

 

自分で自分の首を絞めてることにも気づかず

 

苦しい結婚生活を

 

送ることになってしまった。

 

 

 

 

きっとそれも


「にがいタネ」の「しわざ」でしょう。

 

 

 

 


お母さんに笑って欲しいって、

 

子供の頃に思ってた自分が、

 

 

 

「笑わない母親」になっていたなんて、

 

何をやってたんだって

 

おいおいって、

 

ツッコミを入れたくなる感じ。

 

 

 


実際に、私が浮かない顔をしていると


「眠いの?」


とか


「どうしたの?疲れてるの?」


と、子供が気にかけてくれた。





それはそれで嬉しいけれど、


「なんだか気を遣わせてしまってるな〜」


っていう、


申し訳ないなという気持ちのほうが強かったな。





そう考えると、

 

お母さんの笑顔って

 

責任重大だなと思う。

 

 

 

 

笑顔がないだけで、


子供にへんな気を遣わせて、

 

愛されてないかも…と、


不安にさせちゃうから。

 

 

 

 

 


お母さんの「笑顔」は、


子供にとって、


「愛情」と「安心」だと思う。





お母さんの「笑顔」で、


我が子のこころを満たせば、


自分は愛される人間なんだ


っていう自信になって、


「自分らしく生きる」に


きっと繋がると思うから、






私はやっぱり、


母としても、ひとりの人間としても、


「笑顔」でいることが


一番大切だな〜と改めて思う。


 

 


前にテレビで、


末期ガンの人が、


残りの時間を好きなことして過ごそうと決めて、


毎日、楽しい、嬉しいを増やして


笑って過ごしてたら、


ガンが消えた!っていうのを見て、


それがいまだに印象深く、


私の頭の中に残っているのだけど、





笑うって、


心だけじゃなく体にとっても、


良いことなのですよね。





 


自分と向き合うと、

 

「大切にしたいもの」が見えてくるな〜という話。

 

 

 

 

今度は「私が笑う番」だからこそ、

 

子供のためにも、

 

せいいっぱい、

 

自分が笑顔になる選択を

 

していきたいと思う。


 

 

 

 

 

 

 

 

 






 

今日は「わたしの性格」について書こうと思います。

 

 

 

 

(突然すみません。笑)

 

 

 

 

 

どんな性格かというと…

 

 

 

 

・楽観的

 

 

・テキトー

 

 

・明るい

 

 

・元気

 

 

・いつも笑っている

 

 

・癒し系(と、友達に言われる)

 

 

・「なんとかなるっしょ!」が口ぐせ

 

 

・物事を深く考え込むタイプではない

 

 

・他人のこととなると

 

 

・自分のことのように考えてしまう一面もある

 

 

 

と、サラッというとこんな感じです。

 

 

 


 


夫と、別居をして3年経ちましたが、




生活のための仕事(飲食店のウェイトレス)と




将来やっていきたいこと(カウンセラー)の




バランスをとりながら、

 



自分の健康にも気を遣いつつ、




日々過ごしています。







 

どうして、突然、こんなことを書いているのかと言うと、

 

 

 

 

先日、わたしのブログを読んだ

 


 

幼馴染の親友から(わたし以上にわたしのことを知っている…)

 

 

 

 

 

「ちかちゃんではないな」

 

 

 

「もっと気楽に」

 

 

 

「自分に素直に」

 

 

 

「ちかちゃんは暗くない」

 

 

 

「ニコニコしてる」

 

 

 

と、ズバッとご指摘いただきまして、

 

 

 

 

そっか…

 

 

 

そうだよね…

 

 

 

確かに、わたしっぽくないよね…と、

 

 

 

 

すぐに、納得した自分がいたのです。笑

 

 

 

 

 

 

 

ちゃんと書かなきゃ!と、

 

 

力み過ぎていたのか、

 

 

ブログの内容が内容だけに、

 

 

真面目に暗めに書かないと

 

 

伝わらないかな…

 




 

明るく書いたら

 

 

真剣さが伝わらないよな…

 

 

そんなふうに思いながら

 

 

書いていたのが原因だと思います。

 

 

 

 

(実際はおチャラけた性格なのです。)

 

 

 

 


 

それと、

 

 

「~だ。」「~である。」っていう

 

 

クールな口調も、

 

 

ダークな写真も

 

 

純粋に好きだったりします。

 

 

 

 





 

が、





わたしのイメージとは






ちょっと違うのです。

 



 


 

そんなこんなで、

 

 

 

やっぱり「素のわたしを知ってほしい!」と思ったので、

 

 

 

わたしの性格について書かせていただきました。

 

 

 



 

 

そして、




この事がきっかけで、

 

 

 

改めて自分を見つめ直すこともできました。

 

 

 

 

 


へんに、格好つけようとして

 

 

普段つかわないような言葉をつかったり

 

 

みつくろった言葉をつかっていたなと。

 

 

 

 

 


そんな自分が

 

 

ちょっと恥ずかしい…。笑

 

 

 

 


 

これからは、

 

 

自分の想いや考えを

 

 

そのまま自分の言葉で

 

 

発信していけるように

 

 

心がけていこうと思います。

 

 

 



 

こんなわたしですが、

 

 

こらからも、よろしくお願いします。

 

 

 

 

藤原 ちか

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分の「内なる声」を聴こうと

意識するようになってから

 

 

 

自分らしい選択ができるようになって

ストレスを感じることも少なくなり

毎日、機嫌よくいられるようになった。





日々の生活の中で、

小さなことから大きなことまで、

自分らしい選択ができるようになったからだと思う。

 

 

 

 

別居する前のワタシは

「夫が怖い」「モラハラ」「離婚」と検索し、

ネットで情報を集めては、

 

 

 

 

情報が溢れすぎて

結局、何が正解なのか分からず

頭の中が混乱するだけだった。

 

 

 

 

いろんな人のブログを見て

自分と似たような境遇の人を見つけては

 

 

 

「自分はまだマシかも…」と、

 

 

 

謎の安心感を得て、

中途半端に心を癒していた時期もあった。

 

 

 

 

それと、これは性格的な問題だけど、

自分のことなのに、

いつも自分以外の誰かの立場になって

物事を考えてしまうクセがあった。

 

 

 

 

そうやって、

自分の「内なる声」に

少しも耳を傾けようともせず、

 

 

 

「外側」ばかりに意識が向いても、

 

 

 

考えているようで、

まるで考えていないような、

なんだか居心地の悪い感覚を

ぼんやりと感じていた。

 

 

 


夫や子供の気持ちを優先することで

居心地の悪い状態を

感じないようにしていたのもしれない。

 


 

 

 

今振り返ってみても、

 

 

いったい何を考えていたの?

いったい誰の人生を生きていたの?

 

 

と思う。

 

 

 

 

外側ばかりに意識がいっても、

何も現実が変わらないこと気づいた私は、

 

 

 

以前から興味があった

心の勉強をするようになって、

「内なる声」を意識するようになった。

 

 

 

すると、

 

 

 

楽しむことを大切にしたい

 

できるだけ笑って暮らしたい

 

私の笑顔を見て喜んでくれないのは悲しい

 

夫が笑ってくれないと私は寂しい

 

夫の思いどおりにしないと

 

認めてもらえないのは悲しい

 

夫の歪んだ愛情なんていらない

 

条件付きの優しさもいらない

 

夫の価値観で生きるなんて最悪だ

 

そんなふうに思う人と

 

人生を添い遂げて

 

人生が終わるなんて絶対に嫌だ!

 

幸せになりたい!

 

夫から離れたい!

 

逃げたい!!!

 

 

 

そんな数々の

「内なる声」に、気づいた私は、

 

 

 

自分を愛おしく思えて

自分を大切にして生きていきたいと

はじめて心から思えた。

 

 

 

そう思ったら、

もう、家を出ずにはいられなくなり、

1ヶ月後には、

子供を連れて実家へ逃げた。

 

 

 

 

 

「内なる声」って

いつも心の中に

当たり前のようにある声だからこそ、

あえて自分で意識しないと、

なかなか気づけない。

 

 

 

 

人の気持ちをつい優先してしまう

心優しい人は、

 

 

いつも誰かのために頑張っていて

無意識に自分の気持ちに

蓋をしている人だと思う。

 

 

 

 

楽観的で

物事をあまり深く考えないような、

私みたいなタイプの人は、

 

 

 

心の中にパッと浮かんだ

気持ちや違和感を

 

 

「思った」「感じた」で

終わらせてしまうことが多々あると思う。

 

 

 

 

それは「表面的な気持ち」で、

気持ちのほんの一部でしかない。

 

 

 

 

本当に大事なことは、

その「表面的な気持ち」ではなく

心のもっと奥深くにある

自分の「内なる声」だ。

 

 

 

 

そもそも「表面的な気持ち」は、

「内なる声」があるからこそ

湧き出てくる感情だから

 

 

 

「内なる声」を知ることは

本当に大切なことだと思う。

 

 

 

 

そうして、

自分の気持ちそのものを受け止め、

自分にとって何が必要で

何を手放すべきか、

 

 

 

自分で考えて決断することができれば、

自分らしい人生の選択ができる。

 

 

 

 

 

 

自分の「内なる声」を知るには、

今の自分が思うことや悩みなど

一つテーマを決めて、

 

 

 

「なぜ?」「それで?」「本当に?」

「とは?」「どうして?」「本当に?」と、

どんどん質問を繰り返すこと。

 

 

 

 

 

誰かにコントロールされて選ばされた人生なんかより、遥はるかに幸せな人生になる。

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな希望を持って

自分と向き合う時間を

ぜひ作って欲しい。

 

 

 

 

ただ、、、

自分を深く知ることは、

恥ずかしかったりもするし

無意識に「封印していた気持ち」に触れることにもなるから、

 

 

 

怖くて考えることを

無意識に避けてしまいたくなって、

「めんどくさい」と投げ出したくなることがある。

 

 

 

そんな時は、

 

 

自分意外の誰かの立場になって

考えるクセがある、

そんな特性を持った私に、

 

 

あなたの「内なる声」を

一緒に導き出すお手伝いをさせて欲しいのです。

 

 

 

 

あなたが幸せになるための一歩を踏み出せるように、手助けができればとても嬉しいのです。