日韓関係が冷え込む中、韓国で多くの賞を受賞した映画「金子文子と朴烈」。

観る人を惹きつけてやまない金子文子の人物像に迫った「その1」に続き、

海渡弁護士が朴烈と文子が問われた罪を分析します。

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いま、金子文子と朴烈について論ずることにどのような意味があるか その2

爆発物の注文を「共謀」したことが大逆罪?!

 

海渡 雄一

 

関東大震災・朝鮮人虐殺と文子らの拘束

 

1923年9月1日関東大震災が発災し、多くの朝鮮・中国人が虐殺された。大杉栄・伊藤野枝らも虐殺された。被抑圧民族の抵抗を恐怖するパニックが、戒厳令が敷かれたことによって、戦時と同様の暴力が許されるとの差別意識を生み出したのである。政府は、この虐殺事件に対する国際的な批判をかわすためにも、朝鮮人による大逆事件を仮構する必要があった。
日弁連は、2003年8月25日に人権擁護委員会による徹底した調査に基づいて、関東大震災時の大虐殺について、政府の責任を認める勧告(関東大震災人権救済申立事件調査報告書)を行った。この勧告の全文は、梓沢和幸弁護士が公表されているが、その結論部分を引用する。


「軍隊による国の直接的な虐殺行為はもとより、内務省警保局をはじめとする国の機関自らが、 朝鮮人が 『不逞行為』 によって震災の被害を拡大しているとの認識を全国に伝播し、各方面に自警の措置をよびかけ、 民衆に殺人・暴行の動機付けをした責任は重大である。
しかるに国はその責任をあきらかにせず、謝罪もしていない。そればかりか、国として虐殺の実態や原因についての調査もしていない。
虐殺の規模、深刻さにかんがみると、長期にわたるその不作為の責任は重大であるといわなければならない。
国のこれら亡くなられた被害者やその遺族に与えた人権侵害行為の責任は、80年の経過により消滅するものではなく、事実を調査し、事件の内容を明らかにし、謝罪すべきである。」

 

映画「金子文子と朴烈」は、9月2日まで内務大臣だった、水野錬太郎が、朝鮮人虐殺の事実を正当化するために、スケープゴートとして二人を選び出したとの仮説を映像化している。もちろん、歴史的にこのような事実が証明されているわけではない。しかし、事件にあいまいな供述以外の物証がほとんどないことからも、文子たちの事件が政治的なフレームアップであったという疑いには根拠がある。


9月3日以降に文子と朴烈、そして不逞社の者らが世田谷警察署に検束される。当初は、虐殺の危険から保護するという名目であった。10月20日には、東京地裁刑事局が不逞社の16名を治安警察法違反(秘密結社の結成)という容疑で起訴した。まだ、治安維持法の制定前である。文子らの家には不逞社の看板も掛けられていたのであるから、公然結社であり、秘密結社は明らかに言いかがりである。

 

現実性がない爆弾の入手計画
 

次の段階は、爆発物取締罰則の適用に向けての捜査である。刑事事件の記録を検討すると、朴烈が爆弾を入手しようと活動していたという事実は認められる。


1924年2月4日、第6回予審調書で、朴烈は爆弾の入手依頼の経緯を供述した。これは、他の不逞社の同志が全く無関係であることを証明して、累を及ぼさないにするためであった。
捜査過程には朴烈が爆弾の入手をもちかけたとされる4人の名前が登場する。そのうちの二人(杉本貞一・崔爀鎮)は予審の過程で落とされ、起訴と判決の対象とされたのは金翰と金重漢の二人である。ここでは二人についてだけ検討する。

 

まず、金翰について検討する。金翰は、日露戦争当時に日本に留学し、法政大学に在学していた経歴を持っている。当時、38歳。李承晩を大統領、李東輝を国務総理とする上海の朝鮮仮政府の秘書局長をしていた。その後、仮政府を離れ、「無産者同盟会」を作っていた。義烈団のメンバーではない。

 

1922年9月、朴は信濃川朝鮮人労働者虐殺事件の報告のため京城を訪問し、その際に金翰と会った。しかし、この時には爆弾の話は出ていない(朴はこの時に依頼したと供述するが、明らかに事実に反する。)。

 

1923年11月、朴は再度京城に行き、朴が金に爆弾の入手を依頼したとされるのが、起訴事実である(判決の認定もそうである)。文子は、朴が金に暗号の手紙を女性独立活動家である李小紅(李小岩が本名)を介して送っていたことは知っていたようである。

 

彼女は官妓であった。当時の活動家には妓生出身者が多い。映画「密偵」で壮絶な最期を遂げたヨン・ゲスンは、実在した妓生出身の活動家である玄桂玉をモデルとしている。彼女は洗練された容姿に風流歌舞も優れ、漢文にも秀で、大邱の名妓と呼ばれていたという。朝鮮時代随一とされたファン・ジニの再来を思わせる。桂玉は「馬にのる妓生」として知られた。

 

(映画「密偵」でハンジミンが演じたヨン・ゲソン 玄桂玉がモデル)


李が暗号の手紙を取り次いだのは11月ごろに二回だと述べている(李小岩第三回尋問調書)。そして、朴が書いた暗号の手紙の内容は、一通目が黒濤会の分裂、黒友会の設立の経緯を説明したものであり、二通目は、彼らの発行する予定であった雑誌「不逞鮮人」(検閲により「太い鮮人」と改称させられている)」の宣伝を依頼しただけの内容である。11月以降は、朴は金宛ての手紙を書いておらず、金は1923年1月に発生した金相玉事件に連座して1923年初めには検挙されてしまうのである(金翰第二回予審調書)


金相玉事件こそは、映画「密偵」のモチーフとなった事件である。1月12日、鍾路警察署を爆破する事件が起こり、刑事1名死亡し20数名が負傷する。義烈団に送り込まれていた警察の密偵金相玉が取り調べを受ける。警察からの追跡を振り切り、銃撃戦を繰り返しながら逃走を続け、最後は1月22日百名の警官隊を相手に2丁拳銃で応戦し、頭部と心臓を撃たれ絶命した。


ここで、明確にしておかなければならないことは、朴と文子は、金が義烈団の団員であると調書で述べているが、金はこれを明確に否定していることである(金翰第二回予審調書)。
金翰は、当時無産者同盟会という労働者教育のための組織をつくり、活動していた。共産党員であり、アナーキズムを標榜していた義烈団とは思想的に相容れない。
金が義烈団の団長金元鳳の使者から爆弾の取り次ぎを頼まれたことはあり、爆弾が来たら頒けてやるという朴への発言は11月の会談時にあったようである。しかし、義烈団と金との関係に齟齬を来し、爆弾は別のところに送られ、金のところには結局爆弾は来なかったのである。その段階で、朴との約束も履行不能となり、その後金はこの取り次ぎ約束を理由に逮捕され、懲役5年の判決を受けた。
 

この金翰事件は金重漢の件に比べれば、具体性はあるが、実際に爆弾を入手できるメドはほとんどなかった。文子は、朴が金となにか危険な話し合いを暗号手紙でしていることは気づいていただろうが、その詳細は知らなかったと思われる。しかし、この件についての関与は、文子は最後まで否定していない。

 

次に、金重漢である。金は京城普通高等学校に在学中無政府主義に惹かれ、大杉栄や加藤一夫のようになろうと、21歳で上京した。当時、朴烈の名前は朝鮮でも知られており、金はまず朴を訪ね、黒友社、続いて不逞社に加入した。

 

朴は1923年5月20日に金を訪ね「爆弾を入手したい。」と依頼した。金は「朝鮮人は入国時の検査が厳しいので難しい」と答え、これを断った。朴烈は、「それでは、上海の独立党との連絡を取って欲しい」と述べ、金は「それぐらいならやってあげよう」と答えたというのである。この場で、爆弾の輸入にいくらぐらいの費用がかかるかという話も出ているが、「千円か二千円」という数字が金から出て、朴にはそんな費用は全く用意できないことが明らかだった。その後、爆弾を投げるとしたら、いつ頃が良いかというような話がなされたこともあったようである。金は、そのころ不逞社の会合に出ていた文子の友人である新山初代に一目惚れし、二人は激しい恋に落ちた。新山は文子が通っていた学校で知り合った、生涯にただ一人得た女友達である。新山は、結核を病み、余命は長くないと自覚していた。文子にマックス・スチルネルなどニヒリズムの本を貸したのも彼女である。

 

朴は、新山に熱を上げている金を見て、その人物に不安を抱き、金に対する爆弾入手の依頼を断った。ところが、金と初代は、このことを恨み、8月10日の黒友会の定例会(朴と文子と栗原は欠席している)で、この事実を明かしてしまった。さらに、翌8月11日には不逞社の例会が開かれ、その場で金は朴を「卑劣だ」と激しくののしり、短刀で畳を切ったという。文子は、実際にはこの場ではじめて朴が金に爆弾の入手を依頼していたことを知ったのであった。

 

翌朝、文子は帰宅する新山を駅まで歩いて送った。その送り道すがら、文子の愛する朴が口先だけの卑劣な男ではないという説明のために、文子は過去の金翰とのやりとり、暗号の手紙のやりとりについて話してしまったのである。このことが、金翰の件が発覚する縁由となった。新山は逮捕後結核を悪化させ、11月には釈放されるが、直後に死亡している。新山がこのことをあきらかにする過程で、警察で拷問を受けたように映画には描かれている。真実はわからない。文子は、これらの事件を警察に明るみにしてしまった新山に対して、恨みがましいことは一言も述べていない。新山こそ生涯にただ一人の女友達であったと言い続けている。まことに文子らしい。文子が新山について詠んだ悲しい秀れた歌が遺されている。
「『ふみちゃん』と 友は呼ばはり 鉄格子窓に 我も答へぬ 獄則を無視して」
「今はなき 友の遺筆を つくづくと 見つつ思ひぬ 友てふ言葉」

 

 

爆発物の注文といえるか?
 

朴と文子は爆発物取締罰則の中の「爆発物の注文」という罪に問われた。朴が、二人に爆弾を入手しようと話を持ちかけたのは事実であるとしても、いずれも入手が実現する遙か前の段階で失敗している。入手できる具体的な可能性がなかったとすれば、注文は成立しないのではないか。特に金重漢については、依頼の後に、明確にこれを中止している。

 

さらに、金重漢への依頼は朴が一人でやったことであり、文子には関係がなかった。文子は、予審調書の中では、金への依頼は二人で相談した上で行ったことだと一貫して述べていたが、それは事実ではなかった。弁護人の弁論でこのことを指摘され、文子は判決直前の本人の陳述(「二十六日夜半」)の中でこのことをあきらかにした。この文書においても、文子は明らかに朴烈とともに死刑判決を受けることを望んでいる。この文子の陳述は、「真実をあきらかにしておきたい」という気持ちからなされたものであり、自らの罪を逃れるために話されたことではない。だからこそ、真実性は高い。しかし、このことは判決では否定されている。